前回の桂離宮の其一からの続きである。
八条宮智仁親王が桂離宮の造営に踏み切ったのは、
豊臣秀吉の行動がその要因を成すべきものがあった。



八条宮智仁親王の幼少名は胡佐麿(こさまろ)。
すぐ上の兄である邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、
智仁王も天正14年(1586年)、
今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、
将来の関白職を約束されていた。

 

 

 

 

 



その時の胡佐麿10歳と秀吉52歳の歌のやり取りが、


秀吉 万代の 君が行幸に なれなれむ 緑木高き 軒の玉松


胡佐麿 契りあれや 君まちえたる 時津風 千代にならせる 庭の松がえ


10歳でこのように詠えるとは、親王の文芸の才はこの時既に秀でていた。

 



しかし3年後の天正17年(1589年)、
淀君に実子・鶴松が生まれた為に縁組は一方的に破棄され、
同年12月に秀吉の要請によって八条宮家が創設された。

私は歴史、古典には極めて疎い方だが、
豊臣秀吉の狡猾さは何となく分かるし、
秀吉の周辺には不可解な出来事、謎が蠢いている。
しかしその鶴松は三歳で命を終え、
仕方なく甥の秀次を養子にするが、
その後、淀君にまた子供が出来ると、
秀次をご乱心を理由に切腹を命じる事になる。
その実子・秀頼も1615年、
夏の陣で22歳の若さで母・淀君と共に最期を遂げる。



最も不可解な出来事、謎は「本能寺の変」だが、
その他、秀吉一世一代の大舞台の北野天満宮の「北野大茶湯」は、
10日間開催される予定が1日で終了。
武士でもない千利休に切腹を命じ、介錯人が首を落とし、
その後、秀吉は利休の首の確認を拒むも、
一条戻り橋に大徳寺の山門の問題視された利休像に
踏みつけられる形で晒され、その無残な首を見ようと、
連日、民衆が列をなしたと言われている。

その後も平安京大内裏跡に造営された、
秀吉待望の豪華絢爛な聚楽第は竣工後8年で取り壊すなど、
この人の行動は到底凡人では想像できない、
途轍もなく深い闇を感じざるを得ない。



話を智仁親王の桂離宮に戻し、
この桂の地も数奇な歴史を持っている。
八条宮家の本邸は今出川通り、現在の京都御苑内の本邸以外に、
桂離宮、開田御茶屋、御陵御茶屋、鷹峯御屋敷、小山御屋敷を所有。

桂離宮が造営された下桂は「源氏物語」松風帖に登場する
光源氏の「桂殿」はこの地にあったとされていて、
平安時代1018年、藤原道長の山荘「桂家」が営まれていた。
以後、この地下桂村周辺は藤原氏長者が引き継ぐ。
室町時代1535年、下桂庄は近衛家の所領になる。
1573年、この地は桂川西岸一帯は細川幽斎の支配に入る。
安土・桃山時代1585年、古田織部、子・重嗣が支配するが、
1615年、大阪内通の罪をかぶせられ親子自刀。
その後智仁親王の領地となる。



智仁親王は13歳の時、
関白九條兼孝の娘と結婚するが、25歳に死別。
37歳の時キリシタン大名京極高知の娘・常子と再婚。
その正室の間に若宮3人と姫宮1人設ける。
歌道の他書道、香道、茶道にも造詣が深く、
当代の宮廷を代表する文化人として、松花堂昭乗、小堀遠州、
前田利家、本阿弥光悦、灰屋紹益、
お坊さんでは南禅寺金地院の以心崇伝、
金閣寺の鳳林承章(ほうりんじょうしょう)、
相国寺の昕叔顕啅(きんしゅくけんたく)など、
広範囲に交流している。



江戸幕府は朝廷の行動の統制を目的として、
1613年「公家衆法度」「勅許紫衣法度」を制定し、
次いで豊臣宗家滅亡後1615年には「禁中並公家諸法度」を公布した。
それにより朝廷の行動全般が幕府の管理下に置かれ、
ある意味で学問・文芸にしか活路を見出せなくなった智仁親王は、
より一層、歌道、書道、香道、茶道を追求する事になり、
その舞台となる茶屋、別荘及び庭園の造営にのめり込む事になる。

 

 

 

 

 



1615~1616年に桂離宮の基になった
念願の「瓜畑のかろき茶屋」の完成し、それを歌にする。

月こそ したしみあかぬ おもふ事 いわんばかりの 友とむかひて

「かろき」とは軽いの意味で、
当初は小さな別荘、素朴な茶屋風であったと思われる。続く。。。

なかなか進展しないが、次回は小堀遠州作の検証。