日本庭園で世界的に有名な庭園は、
龍安寺の石庭、桂離宮の池泉回遊式庭園、
最近ならば島根県の足立美術館の広大な庭園。
不思議な事に全て大名茶人の小堀遠州の名前が付き纏っている。

それほど小堀遠州の建築、作庭、茶道等、多岐に渡る活動は、
時代の芸術の潮流を生み出す業績を残すものになる。
その中でも庭園の才はずば抜けていて、岡山県の頼久寺庭園
滋賀近江の教林坊、京都の二条城二の丸庭園、金地院庭園、
南禅寺方丈庭園、高台寺庭園など、
京都、滋賀を中心に全国に多くの名園を残している。

 



そして桂離宮は小堀遠州の痕跡を残すも、
作者不明の謎を今に伝えている。

 

 



この謎に最も大きく関わったのはブルーノ・タウトである。
ドイツ人建築家のブルーノ・タウトは良くも悪くも、
桂離宮を世界に知らしめ、日本の文化人を奮い立たせた人でもある。
全てが誤解と思い込みで桂離宮の伝説が始まったのかもしれない?



ナチス政権から逃れる為に来日した彼は、翌日に桂離宮に訪れている。
タウトが関係者に設計者を尋ねると「遠州好み」と伝える。
古書院控えの間、 広縁、 そこから張出された月見台の竹縁、 
そこからの庭の眺めを「泣きたくなるほど美しい」と称賛する。
後に桂離宮や伊勢神宮を皇室芸術と呼んで賛美し、
日光東照宮を中国趣味の「建築の堕落だ」とまでこき下ろし、
将軍芸術と呼んでことごとく嫌悪した。
そして桂離宮の設計者として小堀遠州を褒め称えた。
この時タウトは小堀遠州が徳川家康、将軍お抱えの建築家、
作庭家とは知る由も無かったのであろう。
又、タウトの日本で喧伝されていたモダニズム建築家のユダヤ人も、
日本の一部の建築業界、マスコミのご都合主義により作られた、
誤解、思い込みそのものだったが、タウトの著作によって、
日本人の研究者をさておき、自身が桂離宮の『発見者』言い放つ、
又、日光東照宮と共に各地の振興建築群などを、
尽く「いかもの」として憎悪するものとして酷評する。
「いかもの」とはキッチュ、まがいもの、きわものを意味する。

 



例えば日本滞在記で
「新潟は最悪の都会だと言って、興味をそそるものは何一つない。
街を貫く運河は悪臭フンフンとしている。」

 

又、新潟の着いた時の印象を俳句に残している。

新潟や 悪臭の中に 藤咲きぬ


これには新潟出身の作家・坂口安吾も参戦、反論しているほどで、
こんなにも好き放題言えるの、人生幸朗、野村監督、
ボヤキ炸裂のタウトであるが、
お世辞を苦手とする典型的なドイツ人、嘘がつけない、
極めて実直な方だったのかもしれない。

タウトの著作には便臭、小便所の言葉が頻繁に登場する。
下水処理が進んだドイツ人から感じる日本住宅の便所事情、
汲み取り式だった当時日本の便臭は相当酷かったのであろう。

 



兎も角、タウトの日本での建築家としての功績は残せなかったが、
著作家として文化人、知識人に歓迎された。

 



しかし、日本の財産である桂離宮をさも自身が発見者、
日光東照宮を「建築の堕落だ」、日本各地を便臭呼ばわりする。
更に桂離宮を資料も研究せず小堀遠州作だと決めつけた暴挙、
当然、古建築、日本庭園研究家から反発が起こる。
その一人が日本庭園の研究者の森蘊(もり おさむ)である。
桂離宮や修学院離宮など多くの日本庭園における実地測量や発掘調査、
平安から鎌倉にかけて築造された浄土式庭園研究の第一人者である。



森蘊の桂離宮の研究はタウトの一方的な思い込み、
日本文化を弄ぶようなタウトの言動に対する、
反感が根底にあるように思える。
それ故にタウトこそがいい加減な「いかもの」野郎で
ある事を証明する必要があった。
それにはタウトが桂離宮を設計者と決めつけた
小堀遠州作を徹底的に覆す必要があった。
先ず「桂離宮の設計は小堀遠州にあらず」から始まり、
そして本当の設計者を導き出す流れになっている。
関係者しか閲覧できない皇室の建築記録、実地測量や発掘調査、
更には小堀家に伝わる建築、作庭記録にも紐解く徹底的な研究。
その事があり、森蘊は小堀遠州の研究家としても功績を残している。



ところが私の桂離宮の設計者のアプローチは、
図らずも「いかもの」野郎と呼んでしまった、
ブルーノ・タウトの思い込み、
「桂離宮の設計は小堀遠州に間違いない」から始まる( ´艸`)








桂離宮は多くの謎を潜んでいる、誤解と思い込み、
更に造営者の八条宮智仁親王の数奇な運命が一層影を濃くする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。
1586年、豊臣秀吉が嫡男に恵まれず、秀吉の猶子となり、
将来の関白職を約束されていたが、
1589年、秀吉に実子・鶴松が生まれた為に一方的に破棄され、
この時に秀吉から手切れ金3000石が渡され、八条宮家が誕生する。
1598年、豊臣秀吉が亡くなった直後に兄の後陽成天皇は、

当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して、
弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えたが、徳川家康の反対を受け、
その数年後、1615年頃から家領の桂に「瓜畠のかろき茶屋」を造設。
これが後の古書院、中書院、新御殿、五つ茶屋と庭園に広がり、
桂離宮の神話の始まりであった。続く。。。



ようやく自分なりの桂離宮像が纏まりかけてきている。
既に気になる書籍には目を通してはいるが、
如何せん、気ままな道楽人、浮世離れした夢遊病者の戯言。
どこまで真相に近づけるかは、全く風任せである( ´艸`)。