見返り柳は遊廓の入り口に植えられた柳の名称。
遊廓で遊んだ男が帰り道に柳のある辺りで、
名残を惜しんで後ろを振り返った事からこの名が付いた。
遊廓の成立は安土桃山時代までさかのぼり、
別称として廓(くるわ)ともいう。
広義には芸妓を含んだ花街(はなまち、かがい)や、
色里、遊里、色町など私娼街も含めた通称である。
三大遊廓と呼ばれて大いに栄えたのが、
大坂の新町遊廓、京都の島原遊廓、江戸の吉原遊廓。
しかし公的に遊廓の許可を得たのは最初は京都で、
豊臣秀吉の治世の時であるらしい。
島原は唯一残っている歴史ある遊郭の遺構でもあるが、
現在この呼称はタブーになっていて、
上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町と同じ、
花街の名称で統一されている。
実際はそれらの花街よりも歴史があり、
公家、大名、教養人らに支持された、ある意味、
日本一格式の高い遊里だったのであるが。。。
島原についてはブログを始めた5年前、
揚屋の「角屋」、「きんせ旅館」等、
3回ほど記事にしているのだが、
「きんせ旅館」のカフェの珍しい泰山タイルを
再度じっくりと撮りたいと思いやってきた。
「きんせ旅館」は元々は揚屋として営業、
時代の移り変わりと共に旅館となり、
現在はその「きんせ旅館」の名前そのまま残し、
カフェバー、ライブや地域の交流サロンの展開をされていた。
現在はコロナ禍で時間短縮となり、
この日も4時以降の開店と知り店先を覗くが、
営業をやっている様子が無い。
仕方が無いのでこの界隈を巡るとする。
島原を代表する揚屋の「角屋」。
現在は耐震調査の準備のため休館中。
こちらも5年前、
「きんせ旅館」同様に撮影してブログにアップしたが、
自身のブログを検索してみたが、見当たらず?
記憶が曖昧なのかと、画像のテキストの保存データーを
開くとしっかり残っていた。
と言っても、当時の写真を見ると、誠に恥ずかしい?
やはり5年以上写真を撮り続けていると、
多少なりとも進歩している、もちろん素人の範囲内だが( ´艸`)。
と云う事で、
「角屋」は日を改めて紹介したいと思っている。
来た道を戻り「きんせ旅館」前を通るが、
やはりまだ営業されていないみたいなので、
置屋の「輪違屋」の筋まで歩く。
いかにも年季の入った軒行燈(のきあんどん)。
「輪違屋」は浅田次郎の「輪違屋糸里」に登場するが、
良く紹介されているのが「観覧謝絶」の札である。
Wikipediaでも「一見さんお断り」として説明していて、
殆どのインターネット上の説明は同じようなモノだが、
ここは太夫、芸子の支度準備の待機場所の置屋で、
実際の宴の座敷は揚屋の「きんせ」「角屋」等になるので、
この意味するものは、太夫に会って遊ぶ事も観る事は出来ないので、
どうか揚屋でご指名して下さいとの事、と思うのだが。。。
ちょうどこちらのご主人と思われる方が出てこられたので、
特別拝観の事を伺うと、当面は予定は無く、
全ての文化財は現在京都博物館に修復作業をしているので、
今は観る所が殆ど無いと話されていた。
すでに「きんせ旅館」開店予定から30分は過ぎていたので、
諦めて帰ろうとしたら、玄関からお客らしき人が出てきたので、
引き戸を開けてみると、どうも営業をやっているようであった。
大正モダニズム漂う館内はステンドグラスもさることながら、
床面、要所要所に使われた京都発祥の泰山製陶所の窯変の泰山タイル、
モザイクタイルが最大の魅力の館内だ。
先ずは全体が見渡せる席に着き注文をし、
アイスコーヒが運ばれてきたので撮影の申し入れをするが、
5年前と違い、席からの撮影のみしか出来なくなっていた。
ガビ~ン!せっかく5年で上達した腕で
泰山タイルを撮影しようと思っていたのに。。。
席から撮れるモノと言えば
花鳥風月をあしらったステンドグラス。。。
念願の泰山タイルを撮影出来ないのは誠に残念だが、
京都市内では先斗町歌舞練場、京都市美術館、
さらに京大北門前の進々堂、築地などの喫茶店に残されている。
京大北門前の進々堂は近々撮影に伺いたいと思っているが、
京都大学の第二図書館と言われていた静寂の店内で、
果たして自由に撮影できるかどうか?
自由に撮影できるとしたら、
想いきり撮りたいと思っている。
またまた、捕らぬ狸の皮算用をしてしまっている( ´艸`)。