増々悪化する日本のコロナ禍事情。
もとより世界中で豪雨、洪水、地震、山火事など、
自然災害のニュースが人類を脅かす中、
バンクシーの新作が発見された。
三人の男の子たちが乗る小さなボートは、
今にも沈没しそうに後ろに傾いている。
最後尾の子供は一生懸命、バケツで水を掻き出している。
先頭に立つ年上の少年は双眼鏡を覗きながら、
上陸できる場所を探しているか?
その兄の腕に年下の子がしがみつき、
心配そうに後ろの様子を窺っている。
「WE’RE ALL IN THE SAME BOAT (みんな同じ船の上だよ)」
というメッセージが書かれている。
節度無く突き進んだ世界経済が地球規模の災害を
もたらしている事への最終警告?希望か絶望か?

昨日、大文字の送り火が規模を縮小して執り行われた。
これで京都のお盆の行事が終わりとなった。

 



先日は立て続けに、
千本ゑんま堂、千本釈迦堂、六道珍皇寺へお詣りをした。
六道珍皇寺のお詣りを済ませた後、
近くの六波羅蜜寺もどうせならと思いお詣りをしていた。



六波羅蜜寺は東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町にある。
元々は髑髏原(どくろがはら)、髑髏町(どくろちょう)と呼ばれていたが、
江戸時代初期、京都所司代・板倉宗重の命により、町名が不吉な事と、
この頃、轆轤挽き職人が多く住んでいた事もあって、
轆轤(ろくろ)町と変えられたらしい。

 



前回、「六道の辻」の東山側が風葬地と説明したが、
それ以前はこの一帯も風葬地として死体が風に晒され、
夥しい数の髑髏が一面に転がっていたのだろう。
それにしてもその忌まわしい光景を地名にするとは、
死、死体、亡骸に対する日本人の感覚は
今日とかなり違っていたのだろう。


又、六波羅蜜寺の名前は髑髏原(どくろがはら)が
転訛して六原(ろくはら/ろっぱら)、六波羅。。。

そしてこのお寺と言えば、平安時代中期の僧、空也上人。
ひたすら「南無阿弥陀仏」と口で称える口称念仏を
日本において初めて実践したとされ、
念仏信仰の先駆者と評価され、市聖(いちのひじり)と称された。

何と言っても、空也上人立像は一度観た人の
脳裏から離れる事が無い程、インパクトがある。

 


上記写真はネットより。

 

その像は胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の杖を突き、
膝を露に草鞋を履き、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れ、
「化仏(けぶつ、南、無、阿、弥、陀、仏)」を表現すると言う、
もはやシュールレアリスムも超える超絶作品。
この時代に運慶の四男・康勝制作していたとは誠に驚きだ。



祇園祭の起こりである、
神泉苑で初の御霊会を行ったのが863年(貞観5年)。
平安京はもともとが高温多湿の盆地に築かれたが、
急激な人口集中による上下水道の不備などから
マラリア、天然痘、咳病、赤痢、麻疹などが大流行した。



空也上人が市聖として活動しだした当時でも、
その状況全く変わらず、
悪疫退散の為、上人自ら十一面観音像を刻み、
御仏を車に安置して市中を曵き回り、
青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、
中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、
歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて、ついに病魔を鎮められたと伝わる。
(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)



空也上人は延喜3年(903年)頃の生まれとみられ、
生存中から皇室の出、一説には醍醐天皇の落胤という説が噂されるが、
自らの出生を語る事は無かったと云う。



六波羅蜜寺の本堂に上がるの初めてだった。
須弥壇上の厨子内に空也上人が刻んだ秘仏、
ご本尊・十一面観世音菩薩(国宝)が安置されている。
もちろんこの時も御開帳はされていなかったが、
12年に1度の辰年にだけ観る機会があるそうだ。

 

 

 

 

 

 



ともかくここでもコロナ終息だけをお願いして、後にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



尚、空也上人像、平清盛像、

運慶の真作と見なされる地蔵菩薩坐像など、
本尊以外の諸仏は宝物館に安置され、一般公開されている。





そう言えば、
30年前に六道珍皇寺の閻魔様を拝んだ時、
スッタフは幽霊子育飴の取材もしていたみたいだ。

 



当時はかなり寂れていて、
営業やっているのかと思う位だったが、
その後の観光ブームもあり、かなり繁盛しているようだった。
どちらかと云うと、個人的には昔の雰囲気の方が、
子供を思う幽霊には人目を忍んで入りやすいと思うが、
商売としては人が入りやすいように明るく灯っている方が
やはり良いのであろう。。。