四国を残して梅雨明けが出されそうだが、
この2、3日の京都は豪雨と落雷を気にする
不安定な天候だった。

三日前の朝、東寺の蓮の撮影を終え、
天気の事もあるので直ぐ帰るつもりでいたが、
六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ)の前を通りかかった時、
以前見た景色と余りにも違うので、何気なく鳥居を潜った。



東海道新幹線の高架南は六孫王神は、
地元では「六孫さん」と呼ばれているらしい。





六孫王とは祭神の源経基(みなものとのつねもと)に由来し、
平安時代、第56代・清和天皇の第6皇子・貞純親王の第1子源経基が、
6番目の孫である事から六孫王と呼ばれたらしい。



こちらの鳥居を初めて潜ったのは3、4年前の春だった。
見事な参道の桜がSNSで人気を呼び、
その頃はインバウンド効果の絶頂期で、
この小さな境内にも多くの中国観光客で賑わっていた。
それはまるで露天商のいない縁日の様だった。








そんな喧騒は今は夢幻の如く、
もちろん今は桜の季節では無いが、
それにしても境内には掃除する人以外は誰もいない。



この一帯は平清盛の邸宅「八条亭」があったエリアだが、
それ以前は貞純親王、源経基父子の邸宅「桃園邸」があった。



十五才にて元服、源の姓を賜わり、
先例に従い臣籍に加えられたとある。
承平・天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、
現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。
六孫王は臨終に臨み「霊魂滅するとも龍となり
西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言。




そして963年9月に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、
その前に社殿を造営したのが六孫王神社の創建で、
本殿後方に現在も残る石の基壇は経基の廟であると伝わる。



その石の基壇はここからは見る事は出来ないが、
切石が3段のピラミッド状に積まれ、基層幅2.4m、高さ1.7m。






源経基父子の邸宅「桃園邸」と清盛の邸宅「八条亭」は
同じ場所であったかは不明だが、
「桃園邸」も同様大きな敷地を要していた事は窺い知れる。

 


境内自体も神仏分離令後の廃仏毀釈によるものと、
新幹線敷設工事にともない更に縮小される事になる。








六孫王神社には桜以外でも四季折々花が咲いていて、

 


この時は白百合。











足元には爽やかな見知らぬブルーの花。








その前にはモダン様式の蔵?倉庫?

 


おそらく神輿などが所蔵されているのだろう。










黄なりのガラスブロックはブロックと同様、
日本のモダニズム建築の象徴的な素材だったが、
今では使う建築家はいないだろう!






そしてその下には見られぬ神社紋!

 



何を表しているかと言うと、牡丹である。
六孫王は牡丹が非常に好きで「桃園邸」に牡丹を植え、
その花園が嵯峨まで続いていたと伝わる程。
それ故に神社紋を牡丹としたと聞く。









今年の桜の季節はどうっだたんだろう?
来年の桜の季節は外国人観光客は無理としても、
日本人観光客だけでも戻ってきて欲しい!










静まり返った参道には既に蝉の声が響き、
時折新幹線「のぞみ」のけたたましい音が耳を劈く。