この雑踏の交差点は堀川丸太町の現在。
ちょうどスーパーイズミヤの角から撮影している。
この場所は15年ほど前にホテルニュー京都があった場所で、
長年この地でシンボル的な建物であったが、
ホテルの熾烈な競争に負け、コロナ禍のず~っと前に姿を消している。
丸太町通りの東を望むも、
そこにはどこにもある地方都市風景が連なる。
その通りに面するこの印刷物制作会社の屋上に不思議な空間が存在する。
宇治の平等院鳳凰堂を建立した事で知られる摂関・藤原頼通が
平安時代中頃に造営した邸宅「高陽院」庭園の一部が再現されている。
勿論日常業務を行っている会社施設なので、
一般公開はされていないが、今回は特別ご拝領いただき観せて頂いた。
桓武天皇皇子・賀陽親王の邸宅「高陽院(かやのいん)」は、
北は中御門大路、西は堀川小路、東は西洞院大路、
南は大炊御門大路に囲まれていた。
南北2町の広さを有していたその敷地は、
1021年に藤原頼通によって4町に拡大され、完成に至る。
一般の貴族邸宅の4倍の広さは四方(63,504㎡)となり、
何と東京ドーム(46,755㎡)より広い敷地となる。
『栄花物語』には「海龍王の家」とあり、
「この世のことゝ見えず」と記されている。
1024年秋に第68代・後一条天皇が行幸し、競馬(くらべうま)が挙行された。
藤原実資『小右記』、「駒競行幸絵巻」にも豪邸、豪華絢爛ぶりが記されている。
平安京跡で発掘された庭園の池としては最大規模になる。
このITP京都本社ビルの屋上には、
昭和63年のビル建設工事に先立って行われた調査で発掘された
景石を使って庭園の一部を復元。
その当時の栄華を忍ぶには物足りない感じはするものの、
一千年前の実際使われていた庭石が
この空中庭園で甦っているのは感無量である。
中央の比叡山を借景に右には東山連山が連なる。
当時の土地勘、造形を確かめるために
先ほど近くの京都市平安京創生館まで行ってきた。
平安京の復元ジオラマ。
中央に路幅84メートルの朱雀大路が突き抜ける。
道路の東西には鴻臚館、朱雀院、大学寮など、
官庁、離宮が立ち並んでいた。
その先には大内裏正門朱雀門を経て応天門。
平安京の政務や儀式が行われる朝堂院が見える。
その奥には天皇が国家的儀式を行う大極殿。
現在の私の住んでいる所だが、全くその面影は無い( ´艸`)
その南東には天皇の為の庭園「神泉苑」が再現。
当初の敷地は現在の神泉苑の16倍ほどの広さに及び、
二条通から三条通まで、南北4町東西2町、南北約500メートル、
東西約240メートルの池を中心とした大庭園であった。
その北東には冷泉家の邸宅。
更にその北東に「高陽院」の広大な敷地が見える。
南側からはその華麗な庭園の様子は窺い知れないので、
ジオラマの東側に回り込み捉えると、
建物は内裏の清涼殿にみなして建てられていた。
寝殿造であり、四周に2つの池が掘られ、
中島に釣殿が建てられていた。
正門の西門は楼門であり、御堂、文堂が池に面してあった。
敷地の東半分に馬場、馬場殿があり、南よりに築山があった。