目下のところ私の最大の趣味は陶芸になるが、
月の3、4回は素焼き、
本焼きをして頂く為に陶芸教室に出向いている。

その時に通る出水通りには、
千本から七本松まで多くのお寺が連なっていて、
いつも門前を覗きながら通っている。

過去二回ほど撮影している光清寺の山門を見ると、
いつも閉ざされている中門が開かれていた。



その時は陶芸教室、買い物があったので、
立ち寄ることは出来なかったが、
用事を済ませてカメラを持参して再訪。





庫裏前の萩がちょうど見頃を迎えていた。
重森三玲の「心月庭」も別段変わらず!

 



光清寺には重森三玲作庭による庭園が2つのあるが、
通常は中門が閉ざされているので、
本堂前の「心和の庭」は非公開になっている。










ちょうど手水屋にお寺の関係者がおられたので、
庭の撮影を承諾を頂き心して対面。










「心和の庭」は60坪ほどの地割、
白砂、苔地、自然石のみで構成されていて、
北、東の二方が白壁、南面は竹垣になっている。










光清寺の山号が心和山であり、
住職の姓の心山(むねやま)に因み、
心の形に枯山水式庭園が作庭されている。
心字池は元々池泉式庭園に用いられる様式だが、
枯山水式で採用されたのはここが初めてだと云われている。









白砂に苔地で盛り上げ州浜にして形を作り、
その築山の上に12の自然石が立てられている。

 

 

 

 

 

 

 

 




「心和の庭」の「南の庭」には、
かつて庭に使われていた5の石が東西に並べられ、
竹垣にも「心」の字が抽象化され意匠的に描かれている。






「心」字の四画、四仙島が作られ、

 

 

一画め(左端)の方丈(1石)、二画めの最も大きな蓬莱(7石)、
三画めの壺梁(こりょう)(2石)、四画めの瀛州(えいしゅう)(2石)。





蓬莱島に本尊石が立てられ、
本堂側から観ると三尊石になる。

 



白砂地に引かれた砂紋は大渦巻紋になる。











石は全て徳島産の青石12石、
横石7石 伏石5石 立石3石となる。





千本出水の光清寺は宮家との関わり深く、
かつて無本寺格として宮準門跡に列せられていた。 
「浮かれ猫」は「出水の七不思議」の一つでもある。



庫裏前の「心月庭」は以前紹介しているが、
改めて重森三玲氏に敬意を表して撮影。



重森三玲の庭は「永遠のモダン」と称される事が多い。
これは初期の東福寺方丈庭園については言えるのだが、
彼が作庭した約200点内の拝観可能、
資料閲覧などを通して作品に触れるにつけ、
それは建築のモダニズムとは異なる前衛的で、
アバンギャルドな作庭家に印象が変わっていく。

 



この高さ30㎝のモルタルで固められた州浜形。
これなどはその当時の伝統的な庭師には絶対NGだが、
重森三玲はいとも簡単に成し遂げている。
いずれにしても1924~1975年の半世紀に及ぶ彼の活動は
誰も成し得なかった昭和の偉業で、
日本庭園に新しい風を吹き込んだ事に間違い無い。









「心月庭」はモルタルで縁取られた州浜台座に、
白砂の砂紋が引かれ、白砂上に2石、
1石は州浜を割って据えられている。
全体で5石があり、須弥山の形になっている。



中心に立てられた主石は先端が鋭く尖る。
その頂点の延長線は庫裡の妻の中心線と完全に一致している。
彼の作庭には新しい建築材料が使われる事が多いが、
こと自然石の選定は現地に赴き、
慎重に吟味して選び出したと聞いている。
それ故に石の表情がどれも豊かで、
そう云った意味ではアニミズム、古神道に通ずる、
自然崇拝者だったかもしれない。

 



それ故か、
彼は禅宗のお寺の作庭が多かったので、
周りの者はてっきり彼の宗教は仏教と思っていたが、
実は神道だと云うのが彼が亡くなった時に分かったらしい( ´艸`)

 

 


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