私が住んでいる上京区の寺之内には多くの寺が建立されている。
豊臣秀吉の洛中改造により寺院が集められた事に寄るが、
聚楽第北方の防衛ラインとして設けられたとの説もある。
そして何故か日蓮宗系寺院が多い。

臨済宗寺院の大徳寺、南禅寺、建仁寺等と違い、
日蓮宗の寺院は一般的に観光化されていない印象が強い。
日蓮宗本山の叡昌山本法寺には何度か訪れているが、
肝心の本阿弥光悦の作庭「巴の庭」をまだ拝見していない…。


 

その前に創建者の日親上人(1407-1488)について…
日親は世の乱れを憂い一条戻橋で辻説法をはじめ、
比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの
他宗派から激しい弾圧を受けていた。

足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、
「立正治国論」を著して直訴を試みたが、
足利善政の怒りにふれ投獄され舌先を切り取られ、
真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられる拷問を受けながらも
説法したことから「鍋かむり日親」と呼ばれていた。
この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったと…。
何とも気骨で壮絶な…。



 

 

 

 

 

 

 

拝観受付の庫裡を入ると右手に講堂の列柱…。



 

 

 

 

 

講堂前の「十(つなし)の庭」…。





 

 

 

 

十の数字を数える際に「十(とう)」だけは
「つ」を付けない事から「つなし(つ無し)」と洒落ている?

 

 

 

 

 

 



沙羅の木が植えられている。

 



そして石は実際には9つしかなく、
見る者の心中にもう一つの石はあると云う…。

 

 

 





そしてここから講堂の展示室に入るのだが、
長谷川等伯筆の「大涅槃図」など絵画10点。
本阿弥光悦筆の法華題目抄など書が2点…。
「大涅槃図」は二階を吹き抜けにして展示されているが、
10m及ぶ画面は大迫力!通常は写しだが秋には実物が公開される。

 

 

 




 

講堂から旧建屋に繋がるが、
やはり光悦垣…。

 

 

 

 

 



 

この先が光悦唯一の作例になる枯山水庭園。

 

 

 

 

 







 

 

 

 

豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、
光悦は父親の光二と私財を投じ伽藍の整備に尽力した。




 

 

 

 

 

 

又、これに併せて造られたとされる「巴の庭」は、
室町時代の書院風枯山水の影響と桃山時代の息吹を感じる名庭。



 

 

 

 

 

「巴の庭」は書院の東側から南へ曲がる鍵形で、
三箇所の築山で巴紋を表現することから
元々は「三巴の庭」と呼ばれていたそうで、
巴の形は経年により解りづらくなってきているらしい。


 

 

 

 

 

半円の板石二枚による円形の石「日の字石」、

 

 

 

 

 

 



蓮池は10枚の切石(1.5m)で十角形に組まれ、
中に蓮が植えられている。

 

 

 

 





書院の前には半円の板石二枚による円形の石「日の字石」、
その右に切石による「蓮池(れんち、八橋の池)」が配置され、
合わせて「日蓮」を表現していると…。







 

 




 

 

 

 

又、東南隅に石組の枯瀧が配され、
縦縞紋様の青石によって流れ落ちる水を表現している。

 




 

 

 

 

 

「巴の庭」は1974年に中根金作により修復され、
その後1988年に国の名勝になっている。





この時はほとんど誰にも遭遇せず、
思い存分撮影できたはずだが、
家に帰ってパソコンのモニターで見ると今一つ(笑)。

 

 

 




名残惜しいが「巴の庭」を後に…
小さなつい立に「蹲踞」本阿弥光悦作の文字…。

 

 

 

 




 

この庭自体は光悦作とは説明は無いが、
この「蹲踞」は光悦作と明記されている。
しかし、家に戻ってから貰ったリーフレットをよく見ると、
江戸時代に刊行された「都林泉名勝図会」の紹介図は
廊下で分断されておらず、
この部分も「巴の庭」に一部である事が分かった。

 

 

 

 

 

 

 



風化しているのか、
かなり分かりずらいが蓮弁模様の据えられていた。

 

 


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