10日程前の京都の街が祇園祭で盛り上がっている時に、
以前から気になっていた並河靖之七宝記念館に行ってきた。

記念館は東山区の北端近く、
近くには京都市美術館、平安神宮、動物園など、
大勢の観光客が行き来する有数の観光エリアに位置する。
しかし三条通の一筋北に入ると人影はほとんど無かった…。

 



 

 

 

 

 

 

七宝、所謂「七宝焼(しっぽうやき)」とは、
金、銀、銅、鉄、青銅などの金属素地にした焼物との事だが、
実際の自身のイメージは、観光地の土産品で見かける、
ペンダント、ブローチ、昔おっさんの間で流行ったループタイの類?
美術品とは程遠い民芸風のチープな工芸品の印象が強い。

 



 

 

しかし、明治期に京都で制作活動していた
並河靖之の七宝の数々は美術品として一線を画している。
文様の輪郭線として細く薄い金や銀の金属線を貼り付け、
その線と線の間に釉薬をさして焼成・研磨を繰り返す
「有線七宝」の技法が用いられており、
それによってエナメル質の仕上がりを作り出していた。
特に有名なのが黒色透明釉薬で作り上げた、
緻密で繊細な花鳥風月をあしらった花瓶など…。

 




建物は展示室、主屋、窯場に分かれているが、
入って直ぐの展示室には黒色透明釉薬を中心の作品、
第二展示室には作品と下絵スケッチなどが展示されていた。
残念ながら作品の撮影はNGだが、
美術工芸品としての七宝を見るのは初めて、目からウロコ!!
緻密で吸い込まれるような透明感には只々驚いた!






並河靖之の七宝をお見せ出来ないのは残念だが、
ここに訪れたもう一つの目的は主屋前の「巴里庭」…。

 

 

 

 

 










 

 

手がけたのは庭師・植治こと七代目・小川治兵衛。
植治は靖之とは隣同士で親しく、その関係で施工を行った。

 




 

 

 

 

 

 

30代半ばの植治にとって、
維新後の動乱のあおりで庭造りの仕事が行き詰る中、
受けた並河邸の作庭は転機となる重要な仕事になった。





 

 

 

 

 

随所に施主の靖之と植治のアイデアと盛り込まれ、
展示室軒下の犬走りには約50個の古瓦がはめ込まれている。
少し残念なのは、犬走りの大半は人工芝で塞がれていた。

 

 

 



施主の靖之の意向を汲み、
景石や燈籠、手水鉢など石をふんだんに用いた作りになっている。

 

 

 

 

 

 




 

 



 

 

 

それでは主屋に上がる事に…。

 




 

 

 

 

 

珍しい形の一文字手水鉢は、
鞍馬石のカワスの自然石を一文字に彫り込んだ贅沢なもの。

 




 

 

 

 

 

この主屋の内部も作品同様撮影はNGなので、
ひたすら庭園方向の景色となります…。

 



 

 

 

 

 


 

 

 

池の中には靖之が好きだった鯉が放たれている…。

 





 

 

 

 

「巴里庭」のもう一つの特徴は、
明治23年に完成した琵琶湖疎水から得られた、
豊富な水を利用した躍動的なデザイン…。

 




 

 

 

 

 

七宝の研磨用に疏水から水を引き、
その余水が池に注いでいる…。

 




 

 

 

優れた人物がお隣同士であったのも奇遇だが、
その二人が助け合うようにして、
この様な庭園作品が残されているのは、
正しく奇跡のコラボレーション…。

 




 

 

 

 

 

最後になったが、美術品としての七宝が何故に
一般的に認知されなかったか?
これは明治時代の日本独特の事情に寄るものと…。

 




 

 

 

 

七宝焼は紀元前のエジプトを起源とし、
シルクロードを通って中国に伝わり、
更に日本にも伝わったというのが通説であるらしい。
名称の由来には宝石を材料にして作られるためという説と、
桃山時代前後に法華経の七宝ほどに美しい焼き物である
として付けられたという説があるらしい。

 



明治期の工芸品は主に外貨を稼ぐために海外へと…。
美術品の七宝は明治時代の一時期に爆発的に技術が発展し、
日本人の目には殆ど触れることもなく海外に流出、
国内で唯一の購入者は明治天皇、宮内省であったと聞く。


明治前の日本の七宝は世界的に評価は高くなかったが、
19世紀後半にかけて開催されたパリ万博などで、
並河靖之が立て続け数々の賞を受賞した辺りから、
日本の七宝は世界の七宝作品の歴史の中で、
最高の到達点に達したと評価されだした。
特に靖之の作品は梱包を解く前に競売にかけられ、
富裕層、画商などに高値で売り切れたと伝わる。
それ故に日本に残されている作品は少なく、
現在記念館には下図類989点、道具類532点、
作品に至っては130点余りしか残されていない。




前述の庭の紹介で名前を「巴里庭」としていたが、
これはパリ万博などで賞を受賞した事がとても嬉しかったのか、

靖之自身自ら呼んでいたらしい…。

 

記念館を出て直ぐの白川、
その横の木々が生い茂った空地は七代目・小川治兵衛の住宅跡。
そして白川は琵琶湖疏水から祇園を経て鴨川に流れ込んでいる…。

 

 


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