尚、

「狩野派の租」

「信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる永徳が描いた屏風」

「光信が描いた蟠龍図(鳴龍)のある寺院」

「豊国神社の豊国臨時祭礼図屏風を描いた人物」

「狩野家歴代の墓がある日蓮宗寺院」

の名称は必ず含む事。

 

「狩野派

の租」

 

「狩野派」は、

室町後期から明治初期まで

長きに渡り勢力を誇った画派。

初代「狩野正信」は、中国の漢画様式とやまと絵系の要素を自由に駆使した平明な新様式の画風で足利幕府の御用絵師となり、狩野派の始祖となった。

次代の元信は、書院造の室内空間を彩る装飾的な障壁画様式を広めて狩野派の基盤を確立した。

 

 

 

 

「信長が

上杉謙信

に贈った

と伝えられる

永徳が

描いた屏風」

 

 

元信の孫に当る永徳は、幼少期から画才を発揮、天下の覇者となった信長が上杉謙信に贈った「洛中洛外図屏風」を描く一方、天下統一の権勢を誇示する城郭建築を飾る豪壮な金碧障壁画の大画面に手腕を振るい、安土桃山期の画壇を制覇した。

永徳は47歳で急逝。

 

 

「光信が

描いた

蟠龍図

(鳴龍)

のある寺院」

 

 

永徳亡き後は、長男の光信らが永徳の豪放勇壮な作風とは異なる精緻で優美な花鳥画などに新たな展開を推し進める一方、

相国寺・法堂の天井に「蟠龍図」を描くなど

社寺の障壁画にも力量を示した。

 

「豊国神社の

豊国臨時

祭礼図

屏風を

描いた人物」

 

桃山期に狩野派が果たした役割の一つに

近世初期の風俗画を多く描いた事。

都の内外の景観を描いた洛中洛外図をはじめ桜の名所の花見図や都の人々が桜の花の下で踊る遊楽図など。

門弟の狩野内膳の「豊国祭礼図屏風」は、

秀吉の七回忌に豊国神社・境内で催された臨時祭礼の賑いを華麗に描き上げた名作。

 

 

「狩野家歴代

の墓がある

日蓮宗寺院」

 

徳川幕府の御用絵師となった探幽が江戸に移って「江戸狩野」の系統は盤石となり、

京都に留まった門弟の山楽ら「京狩野」の絵師、更には幕藩体制の安定と共に各藩のお抱えとなった絵師らも勢力を維持し画壇的な影響力は続いた。

法華宗に帰依した

狩野家代々の墓所は上京の妙覚(覺)寺にある。

 

これらをまとめると……

 

「狩野派」の租とされる狩野正信は、

室町幕府の御用絵師となって頭角を現した。

その子・元信の時代には絵師集団としての地位を確立し、

元信の孫で安土桃山期に活躍した永徳は、

正に時代の寵児となる。

信長は永徳の描いた洛中洛外図屏風

上杉謙信に贈った事で知られる。

永徳の子・光信は相国寺法堂に蟠龍図を残し、

狩野内膳は「豊国臨時祭礼図屏風」を描いた。

この様に活躍した狩野一族の墓は、

上京・妙覚寺に現存している。