平安期、

藤原氏は政変で競合する貴族を排斥し、

勢力を伸ばしていった。

例えば、宇多天皇が藤原氏牽制

の為に登用した【61】は、

藤原時平との争いに敗れ、

大宰府に左遷され亡くなった。

この事件後、時平や皇太子・皇太孫の病死、

清涼殿への落雷など異変が相次ぎ、

【61】は怨霊と怖れられ、

鎮める為に現・北野天満宮に祀られた。

 

 

更に、

藤原氏は天皇家との姻戚関係

を強固なものとして実権を握った。

その最盛期は藤原道長の頃である。

道長は一条天皇に長女【62】を、

続く三条天皇に次女・妍子を入内させた。

長和5年、

三条天皇の譲位により後一条天皇が即位すると、

道長は祖父として幼少の天皇を補佐する役割の【63】に就く。

後一条天皇にも三女・威子を入内させ、

皇后・皇太后・太皇太后は全て道長の娘となった。

 

 

【62】には多くの女流文化人が女房として仕えていた。

その一人である【64】が著した『源氏物語』の

主人公・光源氏は道長をモデルとした説もあり、

彼女の邸宅跡と伝わる廬山寺には

「源氏の庭」がある。

又、和泉式部の墓と云われる

宝篋印塔がある誠心院は、

道長が【62】に請われ、

和泉式部のために小御堂と呼ばれる

お堂を建て与えた事が起源である。

 

 

晩年、出家した道長は

末法思想から極楽に見立てた【65】庭園

を持つ広大・壮麗な法成寺を建立した。

道長の日記は『【66】』や『法成寺摂政記』などと呼ばれ、

近衛家・陽明文庫が所蔵する国宝であり、

平成25年にユネスコ記憶遺産に登録された。

 

 

道長の死後、

長男・【67】が別荘であった宇治殿を

寺としたのが【68】の始まりである。

10円硬貨にも描かれている国宝の

阿弥陀堂は【69】の名で知られ、

近年、修復作業により、

往時の彩色が復元された。

本尊・阿弥陀如来坐像(国宝)は、

仏師【70】の作である事が

確認出来る現存唯一の仏像である。