天下統一を進める「秀吉」は関白に任官し、 大坂ではなく京都を本拠とした。
そこで、 応仁の乱で壊滅し場当たり的にしか復興 されていなかった洛中を統一的に整備した。
この一連の事業を 「秀吉の京都改造」と呼んでいる。
この改造された京都が 今の京都中心部の骨格となっている。
秀吉は都市改造の最終段階で、 京都を大きく土塁と堀で囲い込んだ。
その位置は江戸初期の絵図によれば、 南は九条、 東は鴨川、 西は紙屋川(北野さんの西)・千本、 北は鷹峯・紫竹辺りであった。
アジアや西洋の主要都市が 当然の様に備えていた市壁と環濠であるが、 日本の都に造られた、 初めてかつ唯一のものであった。
つまり、 洛中と洛外の境界線が誕生し、 「御土居・京廻ノ堤(キョウマワリノツツミ) ・新堤・洛中惣構(ソウガマエ)」などと呼ばれた。
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