…鎮守として祀られたと云う神社は?

 

 

 

 

白河天皇が善仁(タルヒト)親王(堀河天皇)へ

譲位すると決めたのは、応徳3年の前半の事である。

 

 

7月に、

上皇として院政を行う後院の造営に着手した。

 

『扶養略記』に「九条以南の

鳥羽山荘に新たに後院を建つ。

およそ百余町を卜(ボク)す」

 

と記されている様に、

広大な敷地が確保された。

 

洛中の里内裏や院御所は、

せいぜい4町の規模だが、

鳥羽の後院の敷地は百余町であった。

 

 

平安京の羅城門を南下し京外へ出ると、

作道(ツクリミチ)が続く。

 

その作道の突き当たる所が

鴨川と桂川が合流する三角州、

つまり鳥羽である。

 

鳥羽の後院だから鳥羽殿の名が付いた。

 

造営のにぎにぎしい様子はまるで、

遷都の様であったと、

『扶養略記』に述べられている。

 

 

南殿御所、北殿御所、馬場、

馬場殿御所、泉殿御所と次々建てられ、

鎮守社として「城南宮」が建てられた。

 

城南宮の中に、城南寺が建てられたとも云う。