今回は、前回書いた共学化問題について個人的な見解を。

 

 まず、はっきり言って共学にする必要があるのか。共学化って別学を共学にするのは字の如くです。しかし、何故今それを進める必要はあるのか。いろいろな記事などを見て思ったのは、推進派の主張・発言がよくわからないというのが今の感想です。

 

 正直な話、「多様性」という言葉が使われている昨今、共学化を進めることが本当に正しいのでしょうか。そもそも、論点がずれていてまともな議論になっているとは思えません。「多様性」って何だろうと考えてみると、一つの「共学化」という価値観を押し付けているのが現状です。男子校もあれば女子校もあるし共学校もあるのが多様性を尊重しているということではないでしょうか。多様性という言葉を盾にした文化を崩壊させかねません。本当にこのままでいいのでしょうか。

 

 公立だからといってすべての学校を共学にするのは少々どころかだいぶお門違いです。そんなエビデンスもないのに多様性がどうなどを言ってマッチョな議論を進めようとするのはそもそものスタンスが違っています。共学化したからといって、何がどうなるのか。具体的な何かがあるのでしょうか。昨今の政治と同じく、何がどうするという具体的な指針もないままに突き進むといったことになると、これから先の空はいっそう暗くなることでしょう。これから、高校に進学する中学生たちは、どう考えるのか。これから先の未来を決める子供たちの意見も必要になってきます。大人の都合でどうこう変えていくのは少々どうなのかという意見もあるでしょうから今一度、見直しするのは共学化の方では?と考えるのはおかしいでしょうか。

 

 そもそも、公立学校は受験資格などが公平であるべきです。男子校、女子校が存在してはいけないという理由はどこにあるのでしょうか。公教育は誰にでも開かれるべきというのはすでに達成されているはずです。これ以上は、いちゃもん、言いがかりというべき事態になります。

 

 一つの例ですが、受験の機会は公平に与えられます。当たり前のことです。しかし、試験がある以上入学する人は限られます。試験がある以上は仕方のないことです。これをもとにすると、別学校に入りたいというけれど、性別を理由に入れないから共学化するべきという理由が目につきます。しかし、公教育にも試験という制限はあります。多様性との共生を考えると、いたしかたないと考えるのが妥当です。試験を受けた人すべてが、基準に満たしていない人すらも合格になるという状況はあり得るでしょうか。ありえないはずです。これと同じく、性別による多少の制限は多様性の尊重として捉えられます。

 

 多様性を犠牲にしてまで、共学化を進めるのであれば、矛盾が生じます。こんな「ショック・ドクトリン」を見過ごしてしまえば、おかしな話を受け入れざるをえないことになります。とある記事では、「愛校心はわかるけども、共学の方が乗り越えられる」という発言をしたというものがありました。

 これには「ハア~??」と即座に思いました。何を言うとんねん!!愛校心どうこうという話ではないし、そもそも多様性を焦点にあてるべきやろう!いろんな意見あるし、そんな組織票みたいな感じのことを言ってしまえば、おかしな話になるぞ。じゃあ、共学なら乗り越えられるとかいう主張は、どこに根拠、エビデンスがあんねん!!共学化がすべて解決する道ってどういうこっちゃ?

 

 根拠もなしによくわからない主張をして論点をすり替えて話を進めていくのは古今東西の常?でしょうか。独自のアンケートの実施や中学生のアンケートの結果を見るには、別学にも興味がある人は0ではないし志望する人もいるのです。そういった少数の人の意見をないがしろにしてほしくはありません。民主主義をスタンスにするのであれば、少数派の意見も取り入れていくべきです。民主主義・多様性という言葉を使った、押し通す、ショック・ドクトリンといったものには耐性をつけなくては危ない気がするのは私だけでしょうか。

 

 これから先の教育の在り方を考える議論を目の当たりにすると、やはり「衰退する国家」という現状を受け止めざるをえないと感じます。