※前回の記事はこちらから

 

 

 

2-2.リバタリアニズム

p88 l1-4にあるように財産権を絶対不可侵とする極と最小限の福祉政策を極とする二項の延長線上に全てはまとめられます。これは個人の自由と経済的な自由を同時に尊重するものです。p91 l15- p92 l7で述べられている通り、税金などの納税は社会に必要性と便宜性を求めるということには私は賛成であり、税金を一切納税する義務はないということはないと思います。

 

しかし、このリバタリアニズムは実は理性による自己支配と自己都合主義を正当化してしまうのではないかと私は感じました。累進課税や消費税の値上げにより、国が明らかに日本の国民から金銭を搾取していることは事実だと思います。そして、一定数の富裕層や富裕層もどきは国に一円足りとも持っていかれぬまいという意思で脱税や違法な資金調整をし税額をなるべく抑えようとしていることも見方を変えれば、少しでも手元にお金を残したいという自己都合主義ではないかと考えられます。

 

この税金や貯金におけるリバタリアニズムの考えは問題点は搾取する側の国家、福祉だけでなく、納税者である国民にも問題はあるのではないでしょうか。

 

p73 l9-15にある通り、上の身分、それは富裕層だけでなく、官僚や政治家などの地位の高い人も含むカースト制度があったとしたら上の部分にいる人が脱税や累進課税の回避を様々な控除や抜け道で行うことにより、集まるはずの税額が集まらず、中堅層の支払う能力がある一定以上はあるものの富裕層よりは稼げない層に全ての幸せがきているのではないかと私は考えました。

 

そして、ここで農民が中堅層に例えられているように、農民よりも下の使用人が低所得者や生活保護者に当たると思います。ある一定以下の場合は所得税などが免除されている以上、その人々が本来払うべき税金は誰かが払っているわけであり、このような問題が、財産は絶対不可侵だというリバタリアニズムに反しているのではないかと考えます。

 

 

 

 

 

 

2-3.コミュニタリアリズム

p138 l3-9にあるように、経済のグローバル化、それは単純に国をまたぐ物流、人民の移動が盛んになったという意味とNAFTAやAPECなどの貿易の関税軽減、欧州連合などの国境の撤廃における人民の移動の根ざす場所のグローバル化の意味の2つに取ることができますが、このことを根本にして作られた政治体制が、民主的たな権威が依拠するとは限らないことを物語っている。戦争といった非常事態を除けば、アイデンティティを各々が確立するために道徳的、公民的文化を鼓舞し続ける必要はないと考えていた。しかし、実際のところ大量の難民の流入により目には見えない戦争が始まり、アメリカのメキシコ国境の強化、キューバとの国境解消、イギリスの欧州連合離脱のような現象が起きています。

この問題点は提唱者のいうサンデルの定義の問題ではないと私は考えます。むしろ、リベラリズムやリバタリアニズムをみてきた中で、紛争や経済などを共同体ベースで考えることは相対的評価などから適切であると私は考えました。ではなぜ、サンデルの唱えた共同体国家はうまく行かなかったのでしょうか。

 

それはその後に述べるナショナリズムとも大きな関係があると思います。そして、p141 l12-p142l13でウォルツァーが述べている通り、今の私たちは「一の中の多」であることを認識しなければいけないと思います。そしてこの問題は第二次世界大戦の頃から人間の概念から抜け落ち、今もなお抜け落ちているものだと私は考えます。

 

ユダヤ人はドイツの中の特定の人民です。しかし、ドイツには細かく分けるとたくさんの人種、民族が当時からいました。これはアメリカのヒスパニックにおいても同じです。ヒスパニックは確かにアメリカのなかの特定の人民ですが、人種のるつぼと言われているアメリカには多くの他の人種、民族がいます。内部に多くの共同体を抱えているアメリカやドイツなどの共同体のあり方をウォルツァーが「一の中の多」といっているようにこの定義は国問題だけでなく、一般的な社会生活でも同じことが言えると思います。

 

その一方でリベラリズムで取り上げたアマルティア・センはp143l1-8において、コミュニタリアニズムを否定していますが、私はこのアマルティア・センの述べる理論は見方を変えることによりコミュニタリアニズムの中枢になっているのではないかと考えます。

 

他者が共同体においてコントロールを行うかもしれないということは、個人の自由に関わる問題が共同体に入った時点で終わってしまうことを意味するわけではなく、どのように共同体の中でコントロールが行使されるかということが共同体の大枠を見るよりも、大きな違いを生むとアマルティア センは考えてます。

 

つまり、我々は我々のニーズが考慮されなければならない「受動者」であるだけではなく、同時に何に価値を認め、我々が価値を認めるものをどのように追求するかを決める自由が我々自身の利益やニーズをはるかに超えることのできる「能動者」でもあるのです。そのことからもコミュニタリズムという考えは共同体という捉え方はいい捉え方であるものの、能動者と受動者という個々の立場を考えるべきという点ではコミュニタリズムは不十分なのかもしれません。