春まだ浅き韓国ソウルをひとり旅2025〜その33 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


3月中旬、頂いた連休で実に14年ぶりの韓国・ソウル周辺をひとり旅した際の道中記をお送りしています。



旅は第2日目(2025年3月18日)の様子です。
ソウル郊外の「義王(의왕 Uiwang ウィワン、京畿道義王市)」にある、韓国唯一の「鉄道博物館」にやって来ています。念願の訪問です。


さて、まずは日本統治時代の末期(1940年)に製造され、戦後は韓国の発展を支えた蒸気機関車を拝見して来ました。



余韻に浸るところですが、他にも貴重な車両の展示はたくさん。隣には、水色とベージュに塗り分けられたこの車両が停まっていました。

続いては、こちらを拝見してみましょう。


ディーゼルカー(気動車)でした。
さらに、1963(昭和38)年日本製というもの。お国では、非電化ローカル線で1987年まで使用されていたと解説。



ローカル線を中心に走っていたというので、乗務員室の扉の後方には、柵状の保護が施されているのが目につきます。これは日本も同様。


単線区間にひとつの列車しか入れないようにする(→対面列車との衝突を回避する)ために、
「閉塞区間」という方式が用いられています。

閉塞区間に入る列車は、タブレット(通行手形の一種)と呼ばれる真鍮の玉を入れた、専用の道具を使用します。


駅や信号所に停車するものならば手渡しなのですが、通過する列車の場合、このようなキャッチャーから受け取ることもありました。

これが、タブレットを受け取り通過する列車の車体や窓に当たって破損しないように保護をしている、という訳です。出典①。


ところで、こちらは日本でいうと昭和30年代後半の車両。しかしながら、どこかで見たことのあるような顔つきです。



昨年のこと。富山に乗り鉄で「JR氷見線(ひみせん)」を訪れた際のことでした。高岡(富山県高岡市)にて。


そこで乗車した「キハ40形」というやはりディーゼルカー。旧国鉄から、全国各地のローカル路線で活躍した車両です。



似ています。貫通路の窓高さや、前照灯(ヘッドライト)などの差はありますが、ひょっとするとそれを模したのかも知れないですね。



車内の様子。ロングシート(窓に背を向けて座る)と固定式のクロスシート(線路に直角に座る)が併用されているという設備。


対して、キハ40の車内。作りはだいたい同じ。

ということは、かの地の日本製ディーゼルカーも、ローカル線の普通列車系統で主に活躍していたことがわかります。興味深いものです。


ところで、この日本製ディーゼルカーは新潟で製造された、とも解説にはありました。

製造元は「新潟鐵工所」というメーカーで、ディーゼルカーの製造で、近年まで知られた会社なのでした。


例を挙げれば「JR九州 キハ31形」ディーゼルカー。出典②。


平成年間に入ってからは「JR東海 キハ11形」。出典③。


さらに、非電化ながら通勤・通学輸送で多数の乗客が利用する鉄道「関東鉄道 キハ0形」など多数に及びます。出典④。


興味深いことに、ディーゼルカーの他には、昭和50年代から大都市圏で次々と登場した、ゴムタイヤを用いるいわゆる「新交通システム」の車両も、新潟鐵工所がパイオニア的存在だったということも特筆されます。出典⑤。

「大阪市交通局(現在のOsakaMetro)南港ポートタウン線」、「ニュートラム」が開業した際の「100系」もそうなのでした。余談でした。


韓国の鉄道は、1945年に日本の統治が終焉を迎えた後にも車両の製造や技術の提供など、深い関わりがあるのでした。



さて、このディーゼルカーの右側。同じく、青色と白地に塗り分けられた車両が見えます。

実はこちらも、日本と大きく関わりのある車両なのでした。それも、ソウル首都圏とその周辺の鉄道網の発展に、大きく寄与した歴史的な車両だというのですが。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「フリー百科事典Wikipedia#閉塞_鉄道」)

(出典②「同#国鉄キハ31形気動車」)

(出典③「同#JR東海キハ11形気動車」)

(出典④「同#関東鉄道キハ0形気動車」)

(出典⑤「同#大阪市交通局100系電車」)