みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。

平成に入り、後身の6代目京阪特急「8000系」が続々揃う中、1編成7両(加えて予備車2両)のみが残され、脇役と転じた「3000系(初代)」。「SANZEN-HIROBA」展示より。
ところが1995(平成7)年12月、中間車両を大改造した「二階建てダブルデッカー」がデビューを果たした、というところまで触れました。
この「二階建てダブルデッカー」はやはり大変な人気で、いつ来るやもわからぬ中、始発の淀屋橋で長蛇の待ち列が出来ているのをデビュー直後からしばらく度々目にしたものでした。
確か、はじめて乗ったのは翌年冬のこと。
二階建ての客室は満員で上下階とも入れず、ドア付近から眺めるだけでしたが、なんというすごいものが出来たんやなあと、感嘆したのをよく覚えています。
この「3000系(初代)二階建てダブルデッカー」の改造技術を活かし、車両メーカーで製造されたあらたな「二階建てダブルデッカー」を1998(平成10)年4月までに後身の「8000系」全10編成にも連結。
また、合わせて予備車2両をつなげる改造で中間車とし増結、「3000系(初代)」も8両化。
京阪特急はすべてダブルデッカーつき8両編成になり、輸送力の増強が図られるとともに、京阪特急の価値はさらに向上することになったのでした。出典①。
そんな「3000系(初代)」ですが、徐々に引退への道のりが見えて来ました。ここからは「フリー百科事典Wikipedia#京阪3000系電車(初代)」より。
2008年(平成20年)10月19日の中之島線開業に合わせた新型車両3000系(2代目)の投入を前に、本系列は運用と主要機器類が共通する8000系に編入される(注釈∶8000系30番台と命名、8030系とも。30番台としたのは「元3000系」だったことに由来)(中略)出典②。
同年2月10日には、編入に備えて先頭車前面の車両番号とKマークがステッカー化され、改番前の同年6月15日から24日まで、先頭車の前面に「3505-3055編成 ファイナル!」の特製ヘッドマークが掲出された。



「中之島線」開業(2008年10月)を期して、同線から京都方面への快速急行を運行するに当たりデビューした車両ですが、ダブルデッカーとテレビカーを連結する「3000系(初代)」は自らの車番をこれに譲ったのでした。
ここまで5代目京阪特急を「3000系(初代)」と記して来たのはそのためです。
「8000系」への編入については「二階建てダブルデッカー」デビュー時に、他の平屋車両もそれとほぼ同一の内装、装備にリニューアルされていたため、顔つきはまったく違えどの編入劇が可能になったのでした。出典②。
下の「8630」が8両編成化の際に予備車2両をつないで改造された車両。片方が先頭車両だった関係で左側車端部の窓が4枚になっている。
このように記していますと、ウィキには、
先々代の特急車1810系が1900系に編入されたのと同様の歴史を歩むこととなった。
というくだりもあったことを思い出しました。
上は1956(昭和31)年デビュー「1810系」、下が1963(昭和38)年デビュー「1900系」。
これについては、先日記事でも触れました↑
2025(令和7)年2月12日アップ。
ところで、ウィキの解説はこう続きます。
8000系への編入時に、視認性向上のため先頭車前面の車両番号は黒色となった。
新塗装化は行われず、2010年(平成22年)8月の検査後も京阪特急色が維持された。
という通り、引退まで「8000系30番台」となった「3000系(初代)」は旧塗装のまま残されました。しかし、です。


実際には実現しませんでしたが、もし新塗装化されていれば、全然印象が違うなあと感じた次第でした。見てみたかったものですが、計画自体があったのかも知れません。ブログ主所蔵。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典① 京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」VOL.266 1998年4月号
(出典②「京阪電車 車両の100年」片野正巳イラスト・京阪電気鉄道株式会社編、刊 2010年)
(出典③「鉄路五十年」京阪電気鉄道株式会社編・刊 昭和35年4月発行)
(出典④「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2011年3月発行)