「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪れる〜その12 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。


来年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。



さて、1963(昭和38)年4月16日に、明治以来の悲願だった、大阪市内中央部の淀屋橋(大阪市中央区)へ地下線で乗り入れを果たした京阪電車。そのシンボルとして同年にデビューしたのが、4代目の京阪特急「1900系」。出典①。

しかしながら、後継の5代目「3000系(初代)」が1971(昭和46)年からデビューしたことで、特急専用車両としての活躍はわずか10年弱にとどまった、と前回記事では触れました。



当時の京阪では、特急専用車両に新型車両が投入されると、先代のそれは一般通勤型車両に格下げする、ということをしていました。

くだんの「1900系」も2代目「1700型」や3代目「1800型」とともにその例に漏れませんでした。出典②。



格下げに際しては、
・テレビの撤去
・中間に扉の増設(2→3扉化)
・転換クロスシート(進行方向に座席の向きを変えられる)からロングシート(窓に背を向けて座る)への座席変更
・塗装を緑濃淡に変更
・排障器(スカート)設置
・架線電圧昇圧(予定より大幅に遅れた1983年12月に実施)のための準備工事、などの改造が施されます。

「1900系」最大の特徴である銀色バンパーは存置され、存在感を示していました。出典③。


1974(昭和49)年に特急運用から引退し、翌1975(昭和50)年には、全車両の一般通勤型車両への格下げ改造が完了。華々しい特急運用から、短編成化され、各駅停車や支線運用を中心にした運用に就くことになります。

ここからは、手元にあったショットから。素人ものですので、どうぞご了承くださいm(_ _)m


1985(昭和60)年からは、冷房化を兼ねた車体改修工事が開始。

ところが、重量のある冷房装置を屋根上に載せるに当たり、車体の老朽化による補強が必要となり、骨組みをばらしてまでの大改造を施す必要性があることがわかります。枚方市にて。


一般通勤型車両に姿を変えたとはいえ、もともとは、特急運用という、高速かつ、終日にわたり京阪間をひたすら往復していたという、過酷な条件で使用されていたことに起因するものでした。六地蔵にて。

これら車体改修のコストが予想をはるかに上回ったことから、以降、特急車両の一般通勤型車両への格下げ改造は取り止められるきっかけになったのでした。


わたしが実際に見たり乗ったりした「1900系」は、まさにこの一般通勤型車両、それも車体改修が施された後の姿。主に「交野線(かたのせん)」、「宇治線」から本線の三条までの直通運転にひたすら従事する、という風景でした。

三条から本線を走り、宇治線への連絡線に入る宇治ゆき。中書島にて。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「私鉄ガイドブック・シリーズ 第5巻 阪急・京阪・阪神」慶應義塾大学鉄道研究会編 誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)

(出典②「私鉄の車両15 京阪」飯島巖・青野邦明・諸河久共著 保育社刊 昭和61年4月発行)

(出典③「カラーブックス日本の私鉄7 京阪」奥田行男・野村董・諸河久共著 保育社刊 昭和56年8月発行)