「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪れる〜その10 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。


来年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。



戦中、国策により「旧阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)」と強制的な合併をさせられていた京阪電車。1949(昭和24)年12月にそれぞれが分離独立しましたが、現在に続く京阪特急が誕生したのは翌1950(昭和25)年9月のことでした。以下、出典①。



初代は、戦前に製造された「ロマンスカー」こと「1000型(2代目)」。


2代目は、阪急との分離から2年後の1951(昭和26)年に、京阪特急としてはじめての新造車両としてデビューした「1700型」。


戦後の技術の著しい進化で、全国的に見ても革新的な高性能車両として1953(昭和28)年にデビューしたのが、3代目の「1800型」。



翌1954(昭和29)年7月には、当時としては貴重だったテレビ受信機を搭載し、関西初の「テレビカー」となります。平成に至るまで、京阪特急の代名詞となる、人気の装備でした。



昭和30年代にかけて、これら高性能で快適な転換クロスシート車両により、京阪間をノンストップで運転する特急の利用は年々増加。


ライバルの阪急や国鉄(現在のJR)を凌駕し、京阪間輸送で一線を画すようになりました。



そして、1963(昭和38)年4月16日。

明治の開業以来の悲願だった大阪市内中心部の淀屋橋(大阪市中央区)へ地下線で延伸。「大阪市営地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」と連絡が図られ、利便性がさらに高まりました。


前日の竣工記念式典にて。テープカットは、当時の村岡四郎社長(1899-1975)による。



この淀屋橋延伸に合わせてデビューしたのが、京阪特急としては4代目に当たる「1900系」。

延伸開業のシンボルとして、まさに華々しい登場を果たしたのでした。





ではここからは、以前に訪問したこちらの特別展「路線図で見る京阪電車の半世紀(大阪府立中之島図書館)」特別展より。




開業記念に関係者に配られた資料の表紙を見ても「1900系」の扱い方がわかります。



実はこれには、いまでは懐かしいソノシートが付属していました。「京阪特急の歌」。



1958(昭和33)年に当時、CMソングの大家として著名だった音楽家・三木鶏郎(みき・とりろう、1914-1994)が作詞作曲し、紅白歌合戦の常連だった歌手・楠トシエ(1928-)が歌った、京阪特急のイメージソングでした。


この歌は知ってはいましたが、楽譜を見るのははじめてでしたので、興奮した次第でした。

当時、沿線の枚方に居住していた小中時代のおかん(齢70半ば)によると、京阪電車が提供するテレビやラジオCMのみならず、なにかの時にはどこかしらで聴こえて来た歌、などと話しておりました。余談でした。



そういったことで、110年以上の歴史を誇る京阪電車のひとつの転換点というものは、社運を賭けた半世紀以上の悲願、大阪市内中心部に直接乗り入れを果たした「淀屋橋延伸」だったことは、間違いないようです。



くだんのソノシートから収録されたという「京阪特急の歌」をユーチューブに見つけました!


京阪沿線の名所を詠み込んだ、なかなか味わいある歌です。



次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2011年3月発行)