みなさんこんにちは。前回からの続きです。
おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。
さて、いよいよ本展示を拝見して行こうかというところです。非常に楽しみです。
展示第1章は「奈良線創業時のデザイン」。
大阪と奈良を結ぶ鉄道は「近鉄奈良線」開業以前の明治期に、すでに2路線が開業していました。いずれも「関西鉄道」という私鉄によるもので、現在の「JR大和路線(関西本線)」「学研都市線(片町線)」に当たるものでした。
しかしながら、両線ともに大阪と奈良の府県境にそびえる「生駒山(標高664m)」をはじめとした生駒山地を避けるように敷設されました。グーグル地図を加工。
トンネルを掘削するような土木技術がまだまだ発達していなかったためですが、大阪で創立された「大阪電気軌道(大軌)」という会社が、この生駒山地にトンネルを掘り、直線ルートで大阪と奈良とを結ぼうと計画します。
これが現在の「近鉄奈良線」に当たります。

先行する2路線が避けた生駒山をトンネルで抜けることに社運を賭けた大軌。ですが、落盤事故などもあり、その工期は大幅に延びた上に、資金も枯渇するような状況だったといいます。
数々の企業の創設に関わった実業家で、大軌社長の岩下清周(いわした・きよちか、1857-1928)は私財を投げうち資金を投入、工事を請け負った大林組も惜しみなく最新技術を投入するなど、大変な難工事だったようです。
訪問しているこの特別展、その開業から110周年を迎えたことを記念してのものなのでした。
さて、開業当初に登場したというのがこの「デボ1形」という車両。路面電車のようですね。
開業当初は単車(1両)で運行がなされたといいます。曲線を多用した優美なデザインです。
正面運転室は、5枚の窓での構成。改造を重ねながらも、昭和30年代まで活躍を続けました。
目立つのは、先頭部に設けられたこの物々しい網。「救助網(カウキャッチャー)」と呼ばれるもので、当時、電車に慣れていない人々が誤って線路に侵入してしまった万一の際、これで救い上げるという目的がありました。すごい…
ところで、難工事の「生駒トンネル」はじめ苦心の末に開業した大軌ですが、このようなエピソードもあったそうです。
大阪と奈良の間をできるだけ直線ルートで結ぶことにしたため、開業当初は沿線人口が少なく、生駒山の宝山寺や奈良へ向かう観光客が主要な乗客であった。
よって収入は天候に左右され、同社の社員は常に天気に気を使っていたといわれる。そのため「大阪電気軌道」でなく「大阪天気軌道」だと揶揄されたこともあった。 出典①。
開業後も苦労が絶えなかったようですが、やはり大都市の大阪に奈良からダイレクトに乗り入れ出来るアドバンテージは大きかったようで、乗客は徐々に増え、大軌は次々と路線網を拡大して行きます。開業当時の「大軌奈良駅」。

展示には、電車が「生駒トンネル」を奈良側に抜けた絵葉書もありました。この時代、観光地のみと言わず、このようなその土地土地の様子を絵葉書にすることが流行っていたようです。
しかし、坑口に積まれたレンガの美しいこと。
その「生駒トンネル」で使用されていたレンガも合わせて展示されていました。坑口のみならず、トンネル内部もレンガ積みの仕様だったとのこと。大変な手間暇がかかったのでしょう。
ということは、110年以上前のレンガです。
「生駒トンネル」自体がその当時としては人々の度肝を抜くような、それまでに存在しなかったような長大トンネルでしたから、これは貴重な歴史遺産、と感じます。
大阪・奈良間を直線で結ぶことの意味合いは大きなもので、観光客の利用が主だったものが、大軌による沿線の開発が進捗するに連れて、通勤・通学客も増加の一途を辿ります。
戦後に入り、その流れはさらに加速。奈良線の利用者は年々増大し、輸送力の増強が必要になって来ました。

しかしながらそれを阻んだのは、まさにその「生駒トンネル」だったのでした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「フリー百科事典Wikipedia#近鉄奈良線」)