JR東日本 期間限定「キュンパス」で巡る北東北から寄り道しながら帰阪の旅〜その22 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

暫定ながら、ついに完乗を果たしたJR東日本の全路線。その続編ということで、引き続き「キュンパス」を使い、北東北からあちこち寄り道しながら、帰阪の途に就こうという旅日記をお送りしています。


「東京駅(東京都千代田区)」に戻って来ました。旅も佳境に入った第2日目(2024年3月12日)ですが、せっかく来ている東京駅。


引き続き、わたしがはじめて泊まりがけひとり旅を許された高校1年生の春、この駅で撮り鉄に勤しんだ当時の様子を、恥ずかしながらご覧いただくことにします。1994(平成6)年3月、ちょうど30年前のことです。



夜の東京駅。次々とやって来るブルートレインを興奮しながら、撮影していた高校1年生のわたし。続いて入線したのは「瀬戸号」。


多島美が映える穏やかな瀬戸内海、というデザインがたまりません。旧国鉄からのものですがいまからしてもトレインマークというものは、本当にすばらしいものばかり。 

瀬戸内の美しい島々を真下に、瀬戸大橋を渡って高松まで向かう列車です。


「瀬戸号」には「ラウンジカー」なる車両が連結されていました。乗客のフリースペースとして設けられたものですが、当時、旅番組かでこれの内部を見て、大変食い入ったのをよく覚えています。以下、出典①。

4〜5年先、大学生になると、寝台特急に乗れるような余裕が出来たのですが、その頃にはブルートレインはかなり数を減らしてしまっていました。もう少しばかり早ければ。


そして、最後は「急行銀河号」。
ブルートレインですが「寝台急行」です。


東京〜大阪間を結んでいた、歴史ある夜行急行でした。これは大阪駅でも見たことがありました。23:00発、大阪7:17着。ビジネス需要が高い列車として、根強い人気があったといいます。


こちらも結局、乗ることなく廃止されてしまいました。憧れの寝台急行でした。

やはりわたしは、生まれるのが4、5年遅かったんでしょうか(苦笑)


そういったことで、夜の東京駅の華々しいブルートレインの様子を堪能したのですが、その後にわたしが乗ったというのが、23:40発の「快速大垣ゆき(岐阜県大垣市)」なのでした。


急行型の「165系」という車両が用いられ、この当時は毎日運行されていた、夜行の定期快速列車でした。深夜、浜松にて。


この夜行快速には当時、列車名称はありませんでした。始・終着駅から大垣夜行とか、列車番号から375M、という呼ばれ方をしていたように記憶しています。

いずれにしても、バイブルだった「青春18きっぷ」だけで乗れ、東京まで夜行移動が出来る効果は絶大で、幾度もお世話になりました。


上りの東京着は4:42でしたから、始発から東京駅を起点に、首都圏の鉄道をJR・私鉄問わず乗りまくり出来たのでした。ああ、懐かしい。


ところで、気になるのは東京駅から大垣夜行に乗ったその後の足取りです。続きます。

翌日の日付けで、113系の行き先は「快速網干ゆき(兵庫県姫路市)」と記されているので、大垣から乗り換えたのでしょう。構内の様子からおそらくここは米原(滋賀県米原市)。
新快速に乗れば、大阪までは1時間40分ほど。


しかし、次にあったのがこの写真。ディーゼルカーの「キハ58」です。さらに「急行」。

あれ、この塗装は定期列車では米原に出入りしないはず…なのですが、よくよく目を凝らすと奥の方の車両、塗装が手前のものと違います。


やはり、それに気づいたのか、編成の反対側も記録していました。これ「小浜線(おばません)」で運行されていた、オリジナル色です。


その続き。ベージュに青帯をまとった車両。
左には「419系」、右には「457系」という、北陸本線で活躍していた、かつての寝台特急、急行型電車たちが写っているではないですか。


ここは「小浜線」の始発「敦賀駅(福井県敦賀市)」でした。ということで、大垣→米原→敦賀と大垣夜行を降りてからさらに乗り継ぎ、小浜線の初乗りを帰路に組み込んでいたのでした。


その証左に、地上駅時代の「福知山駅(京都府福知山市)」で発車を待つ「特急あさしお号」や地域色のディーゼルカーが続きます。「小浜線」から「舞鶴線」に乗り、到着したのでしょう。

アルバムは、ここで終わっていました。


しかし果たして、これからおとなしく?福知山線経由で大阪に戻ったのか。
はたまたさらに西に行き「播但線・JR神戸線」で和田山→姫路→大阪と帰ったのか。

いまとなってはわかりませんが、夜行の帰りによくぞ乗りまくっていたものだと、おっさんになった現在は、ただ驚くばかりです。


完全に余談になり恐縮だったのですが、お金はなかったけれども、時間は山ほどあった学生の頃。その真逆のいま。

そう考えると、鉄道の乗り方ひとつ取っても大きく変わったのだなと、つくづく感じます。


さて、女子3人へのおみやげも無事にゲット出来ました。いよいよここからは、帰阪の道のりがはじまります。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「JTB時刻表 1994年3月号」日本交通公社発行)