「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡る近鉄沿線道中記〜その53 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。

今年6月に限定で発売された「近鉄全線2日間フリーきっぷ」で巡った、近鉄沿線乗り鉄道中記をお送りしています。



ただいま「生駒ケーブル 宝山寺駅(奈良県生駒市)」。日本最長、かつ日本最古だというこのケーブルカーの乗り換え駅を、あれこれ探索しています。



さて今冬に、レトロな雰囲気を残してリニューアルされたというこの駅構内。歴史あるケーブルにまつわるさまざまなものが展示されていたのですが、注目すべきものがありました。

それが「大阪電気軌道 沿線名所案内」、大正12(1923)年頃の発行。
「大阪電気軌道(大軌、だいき)」とは現在の「近鉄奈良・大阪・橿原線」系統を建設した鉄道。近鉄の母体会社に当たります。


大軌は1914(大正3)年4月、上本町〜奈良(仮駅)間30.6kmに路面電車規格の電気鉄道を開業させました。現在の「近鉄奈良線」です。





しかし当時、阪奈間を結ぶルートにはすでに官営鉄道や関西鉄道(現在のJR学研都市線・大和路線)が開業していました。徳庵・王寺にて。


ただし、それらが路線を敷設したのは大阪・奈良を分かつ険しい生駒山を極力避けるルート。
明治時代の土木技術では、生駒山に長大トンネルを掘削することが難しかったがゆえの迂回を強いられた結果でした。グーグル地図より。

これに目をつけた大軌首脳陣は、生駒山をトンネルで抜けることで、最短の直線距離で阪奈間を結ぼうとします。さらに当時最先端の電車を使用することで、官営鉄道の汽車よりも速いスピードを出そうという、画期的な事業でした。


ではここからは「フリー百科事典Wikipedia」の関連記事の記述から拾ってみます。



大軌が開業時に投入した「デボ1形」。路面電車規格の開業であった。五位堂検修車庫(同香芝市)「きんてつ鉄道まつり2022」にて。


大軌は生駒山を一直線に貫き、大阪と奈良を最短で直結するルートに賭けることとなった。

当初はトンネル掘削の技術的困難さからケーブルカーの使用まで検討されたとされるが、同社の設立に尽力した岩下清周(いわした きよちか、1857-1924。信濃出身の実業家、起業家。大軌創業時の大出資者)の主張と大林組の技術によって、長さ3,388mの生駒トンネルを開削し、生駒山の登坂区間にできる急勾配を高出力の電車(デボ1形)で越えるという案が採択された。


生駒トンネル(当時の名称は「生駒隧道=ずいどう=」)は1911年(明治44年)6月1日に掘削工事に着手し、同月19日に大林組と正式に請負契約を締結した。当初は手掘りで開始されたが、その後は送電設備が完成し、削岩機が導入された。

その後も地質変化や湧水に悩まされるなど、苦難の連続だったが、1914年(大正3年)1月31日に東西の導坑が貫通し、4月18日にはトンネルが竣工した。大軌の営業開始は4月30日である。生駒隧道の掘削工事は2年10ヵ月の期間と、総額269万円の建設費を要した。


この時開業した「生駒トンネル」大阪側坑口。開通当時は中央本線の笹子トンネル(4,656m)に次いで日本2番目の長さであり、また日本初の標準軌複線トンネルであった。出典同。 

1964(昭和39)年7月の「新生駒トンネル」開業で廃止されて以降も、大阪側の坑口は厳重に管理されている。トンネル手前の「旧日下駅(くさかえき、大阪府東大阪市)」にて。


大阪と奈良の間をできるだけ直線ルートで結ぶことにしたため、開業当初は沿線人口が少なく、生駒山の宝山寺や奈良へ向かう観光客が主要な乗客であった。

よって収入は天候に左右され、同社の社員は常に天気に気を使っていたといわれる。そのため、「大阪電気軌道」でなく『大阪天気軌道』だと揶揄されたこともあった。


また建設した大林組も、大軌による建設費の支払い遅延から一時経営危機に陥った。

しかし、そのような状況にもかかわらず、大林組は手抜きをせず最高の資材を使って工事を進め、検査に来た監理局員がその質の高さに驚かされたというエピソードが残っている。


工費の支払いや利用不振から、大軌は同トンネル開通後しばらく社員の給料支払いや切符の印刷費にも事欠くほど経営が行き詰まり、取締役支配人の金森又一郎(かなもり またいちろう、1873-1937。大阪出身の実業家、大軌創業者)が生駒山にある宝山寺へ賽銭を借りに行った。


宝山寺線は近鉄の前身である大阪電気軌道の系列会社の生駒鋼索鉄道により、宝山寺への参拝客を見込んで、山上線は生駒山上に建設された遊園地のためのアクセス路線として大阪電気軌道によってそれぞれ開業した。




なお、大阪電気軌道は開業直後の資金難のときに、宝山寺から賽銭を融通してもらったことがあり(大軌開業から4年後の)ケーブル敷設はその時の返礼も兼ねていたとも言われている。



なかなか、驚くべき史実があったのですね。

ケーブルカーの建設には、大軌の開業で参拝者が激増した(→賽銭も増えた)宝山寺への返礼の意があったこともさることながらですが、社員の給与袋は賽銭の小銭を掻き集めたがためにとても重かった、という逸話もあるそうです。




近鉄最大の基幹路線、ドル箱路線となっている現在の姿からは、まったく想像もつかないエピソードです。しかし、古来から往来の激しかった阪奈間を極力直線距離で結ぼうとしたのは、まさに先見の明があったことです。鶴橋にて。


ちなみに現在、生駒山中には3本の鉄道トンネルがあります。本題の「(初代)生駒トンネル(1914年4月開業、 3,388m)」。



奈良線の車両規格拡大に伴って掘削された「新生駒トンネル(1964年7月開業、3,494m)」。大阪側坑口、石切にて。


そして「(二代目)生駒トンネル(1986年10月開業、4,737m)」。大阪側坑口、新石切にて。

こちらは「奈良線」のバイパスとして建設された「近鉄東大阪線(現在のけいはんな線)」が使用するものですが、生駒側の坑口300mあまりは「(初代)生駒トンネル」のそれを活用していることは、あまり知られていません。


さて、この「宝山寺駅」でだいぶ油を売ってしまいました。寄り道はいつものことですが💦



ここからいよいよ「山上線」に乗り換えます。終点は「生駒山上駅」、標高642mの生駒山頂へ向け、さらに登って行きます。

次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典「フリー百科事典Wikipedia#近鉄奈良線」「生駒トンネル」「近鉄生駒鋼索線」)