春の箱根と小田原へ!念願の家族旅行記2023〜その47 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。久々の家族旅行で、3月なかばに「箱根・小田原」を訪れた道中記をお送りしています。


旅は第3日目(2023年3月12日)。いよいよ最終日ですが、この日は小田原周辺の観光地巡りをしています。




古くからの小田原名物「かまぼこ」。
その中でも有名な老舗メーカー「鈴廣」さんの全国的に珍しい、こちらの「かまぼこ博物館」の展示を巡っています。

普段、食卓に上ることの多いかまぼこですが、知らぬことばかりで、なかなか興味深いものがあります。そんな中でも…


文献に残る最古のかまぼこを模したという、この食膳に目が行きます。平安時代の再現だそうです。


見た目からして、貴族など上流階級の食事だとわかるのですが、本題のかまぼこは右下。これは「ちくわ」ですね。

ここからは「フリー百科事典Wikipedia#かまぼこ」より。
…平安時代にはあったことが知られているが、その形状は現在のちくわである。古くは材料を竹の棒に筒状に巻いて作った。その形が蒲(がま)の穂に似ていることから「蒲鉾」と呼ばれるようになったとされる。


この最初期の蒲鉾は現在のような海水魚ではなく、主に淡水魚のナマズを原料としていた。竹を抜き去ると現在の竹輪の形になる。

後に板の上に成形した「板蒲鉾」が登場し、区別のために「竹輪蒲鉾」と呼び分けていたが、元祖の方は「蒲鉾」が脱落して単に「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は逆に板が外れて「蒲鉾」になった。


平安時代の『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう、日々行われる儀式や行事などについて図示したマニュアル。展示されていた、まさにこれ!)』には、藤原忠実(1078-1162、摂政・関白・太政大臣を務めた藤原北家の実力者)が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時の串を刺した蒲鉾が載っている。

これを確認できる最古の文献上の蒲鉾であるとして、業界団体がその数字をとって11月15日を蒲鉾の日としている。



手元の日本史図説を繰ってみたのですが、平安時代でもこの頃になると、客人をもてなす「饗応」という文化は高度の粋に達したようです。

手引きマニュアルが作られるあたり、権威や格式を示すあらわれでもあったのでしょうね。出典①。


それはさておき、ちびっ子次女は井戸の水くみ体験に夢中でした\(^o^)/

わたしもさすがにこのような経験ないですが、おそらくはかまぼこ造りには、大量の水が要ったはず。


大変な重労働に違いないでしょうが、箱根を控えるこのあたりでは、清麗な水も確保出来たのでしょうね。自ずからかまぼこ製造には揃った環境だとわかりました。続きます。


白身の魚は高価であり、蒲鉾もご馳走と考えられた。時に贈答品として用いられ、御節料理にも利用される。豊臣秀頼の大好物であったと伝えられ、本能寺での織田信長の最後の晩餐にも供された。

なお、蒲鉾が商品として販売されるようになったのは江戸時代以降、食品工業的な生産が行われるのは明治以降とされる。



江戸時代に入り、今日のような、庶民が味わえる食品になったのですね。ちなみに、鈴廣さんの会社創業は、1865(慶應元)年だとのこと。

次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「図説日本史通覧」帝国書院編・黒田日出男監修 2014年2月発行)