阪和電気鉄道 昭和初期の面影〜その108「和歌山駅周辺の鉄道網変遷を辿る」Vol.21 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

 

「和歌山駅」「和歌山市駅」が玄関口の役割を果たす、現在の和歌山市内中心部の鉄道網。

その歴史を掘り下げますと、さらに「紀和駅(きわえき)」「中ノ島駅(なかのしまえき)」という駅もそれに関わるなど、深く複雑な経緯がありました。

 

 
本題の「阪和電気鉄道」こと現在の「JR阪和線」のそれを中心に、現在までのそれら変遷を実際に辿ってみようということをしています。
 
やって来たのは「中ノ島駅」こと「JR阪和線 紀伊中ノ島駅」。
 
 
現在は、高架駅に阪和線のみが発着する静かな佇まいの駅です。
前回の記事では、この駅の1階部分に、県北や奈良方面から「初代和歌山駅(現在の紀和駅)」と「和歌山市駅」へ至る「和歌山線」が発着していた、ということを述べました。
 
「和歌山線」の経路変更で、この駅を経由する開業以来のルートが放棄されたのは、1972(昭和47)年10月のこと。
 
 
それから半世紀ほどが経過した令和の現在においても、その遺構が驚くほど、ふんだんに遺されていました。探索してみたいと思います。
 
 
消えかかってはいますが、阪和線のガード下には「入信」の文字。ということは「入換信号機」の略ですので、ここには複数の入れ換え線などがあったことが窺えます。
 
 
ホーム跡のある西端から先には、団地群に姿を変えている敷地が広がっています。
 
昭和40年代までは、隣の「紀和駅(昭和43年秋までは初代和歌山駅)」に至るまでの間、広大な操車場や機関区がここには設けられ、この中ノ島の阪和線ガードまでその側線が敷き詰められていたとのこと。
まさにその名残の「入信」表示でした。
 
 
 
 
 
阪和線ガードをくぐる。
和歌山線は方向へ、隣の「田井ノ瀬駅(たいのせえき)」に向かっていました。
 
 
この先は再開発が進んでいて、すでに痕跡はなくなっているように感じられるのですが…
 
 
倉庫が建っているさらに先の、住宅街に立ち並ぶまだあたらしい家々が、横幅も同じくらいで整然と並んでいるのがわかります(の先)。
 
おそらくは、廃線跡の敷地に沿って建てられたのだろうかと、想像してしまいます。
 
 
 

 
 

主を失っても、この鉄橋は「和歌山線こ線橋」という名前のまま。

もう、不要な設備だといえばそれまでなのでしょうが、きちんと定期的にメンテナンスされていることには、感心します。このような痕跡を見つけると、わくわくさえしてしまいます。

 
次回に続きます。
今日はこんなところです。