多扉車の元祖「京阪電車5000系」ラストランへ向かって〜その29 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。


6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。

今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりなどについて掘り下げています。



ここは「萱島駅(かやしまえき、大阪府寝屋川市)」。くだんの、高架複々線の東端部に当たる駅です。
駅前のロータリーには、赤白の京阪バスがちょこんと発車待ちしているのですが、同じ京阪でも、バスはこのように鉄道の方とはまったく異なるカラーリングなのが印象的です。



さて、前回の記事では、古くからこの近辺で尊崇を集めて来た、大クスノキが高架複々線化用地にかかることになったものの、これを切るに忍びず、高架駅に取り込む形で保存されることになったという経緯について触れました。


そういったことで、駅構内に大クスノキと、それをご神体に祀る「萱島神社」が京阪の寄進により、1980(昭和55)年の高架複々線化に合わせてここに設けられました。
1787(天明7)年に創建され、1907(明治40)年に一度、廃社になっていたものをこのように再興した、という由来もあります。

ところで、駅名になっている「萱島」というのは、江戸時代の中ごろまで近くの寝屋川の河原に、カヤやアシの生い茂った中洲が広がっていたことから来ていると言われています。
これらが開墾されて当地では新田開発が進んだのですが、大クスノキはその歴史を垣間見て来た生き証人と言えそうです。 


それでは、境内の様子をスクショ風に。





梅の花が、枝ごとにほころぶ姿に見入ってしまいます。


こちらでお祀りされているのは「菅原道真公・豊受大御神(とようけのおおみかみ)・萱島開拓の租神」だとのこと。

学問の神様に、衣食住と農業をはじめとする産業の神様。そして土地の氏神様と、地元の方々から尊崇されて来たゆえんが、これらの祖神からも窺い知れます。




それでは、歴史と由来が深いこの大クスノキが
どのようにして、駅とともに共生するようになったのかを、もう少しひもといてみたいと思います。

次回に続きます。

今日はこんなところです。