みなさんこんにちは。前回からの続きです。
6月のラストランが迫った、日本初で日本最後となった多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的に見ても、朝ラッシュ時の混雑が殊に激しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
今項では、1972(昭和47)年に起工され、完成までに10年あまりを要した「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」と、その時期に投入が開始された、本題の「5000系」との関わりなどについて掘り下げています。
ここは「萱島駅(かやしまえき、大阪府寝屋川市)」。くだんの、高架複々線の東端部に当たる駅です。
駅前のロータリーには、赤白の京阪バスがちょこんと発車待ちしているのですが、同じ京阪でも、バスはこのように鉄道の方とはまったく異なるカラーリングなのが印象的です。


さて、前回の記事では、古くからこの近辺で尊崇を集めて来た、大クスノキが高架複々線化用地にかかることになったものの、これを切るに忍びず、高架駅に取り込む形で保存されることになったという経緯について触れました。

それでは、歴史と由来が深いこの大クスノキが
どのようにして、駅とともに共生するようになったのかを、もう少しひもといてみたいと思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。