みなさんこんにちは。前回からの続きです。
大阪サンスポ 2020(令和2)年10月29日付けより。
「プレーイングマネージャー」としてチームを率いた「南海ホークス」時代の野村克也さんにまつわる品々が、大阪・南海なんば駅前の「なんばパークス」内「南海ホークスメモリアルギャラリー」に展示される運びになった、という話題をお送りしています。
ノムさんが1977(昭和52)年、監督を解任され南海を去ってから43年。
その間、互いに絶縁状態だったと言われていますが、今回のこの動きというのは、実に大きな出来事なようです。
ところで、ノムさんをはじめとして、数々の名選手が活躍した「ナンバ球場」こと「大阪球場」。その名の通り、大阪・難波という大繁華街のど真ん中にあった球場でした。
見出しにもありますが、南海なんば駅の正面入り口を左に出て、線路沿いに反対方向へ戻り、駅と同居している高島屋を左に見ながら、突き当りにあるT字路の交差点を渡った先に…
その、ナンバ球場はありました。
収容人数3万2000人を誇り、日本シリーズやオールスターゲームなどが何度も開催された、大阪を代表する球場でした。
しかし、バックネット裏から撮られたこの写真ですが…このように満員になるということは、昭和50年代以降、万年Bクラスになってからはまずなかったように記憶しています(苦笑)
いつもガラガラで、敵味方問わず、観客から選手やコーチ、監督(時にはオーナーや審判にも)に対する愉快なヤジが丸聞こえだったのが名物でした。
晩年はBクラスが続き、チームは1988(昭和63)年にダイエーへ譲渡。その後、王貞治さんを監督に迎えてチームを作り替えた結果…
朝日大阪朝刊 2020(令和2)年10月28日付け 15面(スポーツ面)より。
先日の記事でも触れましたが、ダイエーから球団を引き継いだソフトバンクが親会社になると毎年のように優勝を争う常勝チームへと変貌したことは、もはや語るまでもないほどです。
当時からは想像もつきませんが…
ところで、大都会・難波の真ん中にあったその「大阪球場」。手元にあった、このムック本「南海電気鉄道完全データDVDBOOK(メディアックス刊、2013年11月発行)」という書籍に、貴重なショットを見つけました。
球場が出来る前(1950年)の難波周辺の様子。
南海電車の線路の西側に、広大な空き地がありますが、ここに同年、球場が建設されました。
起工から竣工まで、わずか8ヶ月間という突貫工事だったそうです。
そして、このようなショットも。
沿線の開発が進んだ結果、乗客の急増で、輸送力増強のためになんば駅を大改造し拡張する工事が進められている時のもの(1972年)。
大阪人にはおなじみ「ヒロタのシュークリーム」の広告もあったりしますが…
球場のギリギリまで、ホームや線路が拡張されるに至ったそうです。そのおかげで…
毎度おなじみ「Wikipedia#大阪スタヂアム」より。三塁側のスタンドが削られて、非対称の形状になってしまっています(1985年の様子)。
しかし、かつかついっぱいという感ですね。
ところで、手元にあった写真をあれこれ見ていましたら、このようなものもありました。
日付は「94.9.4」、関西空港が開港した日です。当時、高校生だったわたしは、この日から運行を開始した「空港特急ラピート」を撮り鉄しに、南海なんば駅を訪れていたのですが…
関空へ向かって発車する「ラピート」。
その線路際まで、球場の壁面が迫っているのが良くわかります。偶然のショットです(笑)
ホークスが福岡へ旅立った2年後の1990(平成2)年、最後のプロ野球公式戦が行われ、1998(平成10)年に閉場、跡地には「なんばパークス」がつくられて、現在に至ります。

ここまで、あれこれととりとめなく述べてみました。

先の話しに戻りますが、ここ数年は、教え子の江本孟紀さんとホークスのOB戦に出られたり、球団創設75周年の式典にも参加されたりしていたので、ひょっとすると、少しずつその関係性というのは、変化があったのかも知れません。
野村さんの現役時代はもとより、南海での監督時代も知らないわたしですが、ホークスのみならず、その後も野球界に多大な貢献をされたこと、なにより偉大な功績が讃えられるということは、本当に素晴らしいことだと感じますし、
長い歴史のあるホークスの系譜が連綿と繋がることに、あらためて感慨深いものを覚えます。
なんばパークスに、久しぶりに足を運んでみたくなりました。
今日はこんなところです。