みなさんこんにちは。今日の話題ですが…
これはなんということもない、いつもご覧頂いている、自ブログのスクリーンショットです。
昨年、6月にヤフーブログからアメブロに引っ越して来て、紹介文に「心の拠り所にしている松阪晶子さん」と記しておきながら、ようやくにして晶子さんの記事を上げることが出来ました!めちゃうれしいです!
「松阪晶子(まつざか・しょうこ)」さん。
わたしにとっては、先ほど述べたように、いつも心の支えになっている、90年代中期にかけて活躍したロックシンガーソングライターです。
1998年を最後に現在は音楽活動を休止されてはいますが、わたしの心の中にはいまでも晶子さんの珠玉の楽曲の数々と、その人間性溢れる音楽観、世界観というものが息づいています。
それではここで、過去記事を一部引用しながら、晶子さんについて触れてみたいと思います。
松阪 晶子(まつざか しょうこ、本名:松坂 康子(まつざか やすこ)、1972年2月20日 - )は、日本のシンガーソングライター。
岩手県盛岡市出身。血液型O型。父は民謡の先生、母は民謡の踊り手。
3歳から両親の指導のもと民謡、舞踊を始める。
中学入学後、ロック音楽に開眼し、メジャーデビューまでアマチュアバンド「蜃気楼」で主にボーカルとして活動しつつ、両親との約束であった民謡との音楽活動の両立を果たす。高校は入学と当時に、担任(注釈:生活指導の怖い先生)と喧嘩をし、担任の顔に熱いお茶をかけ自主退学する。1990年、上京し、楽曲、デモテープ作りに没頭(1stアルバム「夢を眠らせない」のうち、ほとんどの楽曲をこの時期に制作したという)。
1993年6月2日、東芝EMIよりシングル『まっすぐに/Darlin'』でメジャーデビューする。
その後、ドラマ主題歌に起用されスマッシュヒットとなったシングル『満月』(1994年3月9日)、『燃える瞳を持ち続けて』(1994年5月11日)、『伝わりますか』(1995年2月22日)などを発表。
1995年4月18日、渋谷公会堂(現・渋谷C.C.Lemonホール)で初ライブを挙行。(コンサートの内容を収録した「SHOKO MATSUZAKA FIRST LIVE」と称した番組が後日NHK-BSにて放送された)
1998年、バンダイ・ミュージックエンタテインメントに移籍。
シングル『はつ恋』(1998年11月21日)リリースの後、音楽活動を休止している。
(出典「Wikipedia#松阪晶子」より)
という概略なのですが、晶子さんは、民謡の歌い手である父、踊り手である母という家庭に生まれ、まさに生まれながらにして「音楽」の世界に居たという人物でした。
ところで、今日ここまで(今後もだと思いますが)晶子さんの楽曲に、そしてその音楽観にわたしが惹かれる所以というのは、歌詞、曲の両方にわたり、実に琴線に触れる表現がすべての楽曲に共通していること、その絶妙な、実に地に足をつけた歌詞や楽曲で表現されている世界に自分自身の姿を投影することが出来たことではないかとわたしは思っています。
晶子さんに出会ってから、自分が苦しい時、つらい時、心が折れそうな時…
自分の背中を押してくれたのは、いつも晶子さんの楽曲でした。
どれだけ支えられて、助けられたか。それは「ありがとう」という感謝の言葉だけでは決して表現出来ない、実に深遠なものでした。
おりしもわたしの思春期から大人になるという頃という間でしたから、わたしは晶子さんを、わたしの考え方や行動といった「自分の根幹をつくってくれた人」だと信じています(おそらくこの人と出会わなければ、今日のわたしというのは存在し得なかったと思っています)。
ではここで、その晶子さんにまつわるインタビュー記事をひとつ拾ってみたいと思います。
盛岡で生まれ育ち、音楽の世界にどっぷり浸っていた環境が、実は結構「特別なもの」だったということもわかります。
※平成6(1994)年6月、ファースト・アルバム「夢を眠らせない」をリリースした頃のインタビューです。
―すでにシングルが5枚も出てて、しかも全曲タイアップつきの快挙!
「もうびっくりですね。自分では、シングル用とか、アルバム用なんて考えて曲を作らないから」
―1stアルバムからすでにベスト・アルバムみたいな感じですね。
「実は収録曲の多くは、デビュー前に作ったものなんです。出身が盛岡なんですけど、上京(平成2年)してから3年間はデモ・テープ作りをしてまして。不安だし、色々悩んだ時期でしたね。そんな気持ちに区切りをつけたくて、あえて当時作った曲を選びました。
もちろん今でもアルバム2、3枚出せるくらいの作品が溜まってますけど」
―すごい…で、そもそも歌を始められたキッカケってのは?
「来ましたね!それが、歌は嫌いだったんですよ」
―えっ!
「両親が民謡の先生だったんです。父が歌で、母が踊りを教えてて」
―素晴らしい環境じゃないですか。
「3歳からスパルタ教育。だからイヤでイヤで。反動で中2の時、バンドを始めましたね。
レベッカとかを歌ってたんだけど、これがコブシがまわっちゃうという(笑)」
―なのに民謡歌手にならず、ロック方面に進んだと。
当然、御両親の反対があったんじゃないですか?
「猛反対。『大馬鹿者!』って。私は一人っ子だし、親からすれば後を継ぐべき人間でしたから」
―それでも自分なりに歌おうと決意した背景は?
「高校入学直後、ヤマハのバンド・エクスプロージョン盛岡大会に出たんです。
しかも自分のバンドではなく、友人の代打で出たらボーカル賞を貰っちゃって。
それが地元の雑誌にドンと載ったら、狭い田舎町なんで話が広がって『デビューするんでしょ?』になってしまった(笑)。
学校にも伝わって大騒ぎですよ。あげく生活指導の先生に『お前の家は芸能関係で自由にやってるもんだから』って言われて。
それでプッツン!家の事を何だかんだ言われるのが一番嫌なんです。先生にお茶をかけて、学校はやめました」
―過激な事件が(笑)。
これはもう、シンガーとして身を立てるしかありませんねえ。
「親は『何やってくれたんだ!』と(笑)。怒ってしばらく反対してました。
でも私が、88年から89年にかけて出場した各コンテストで、ボーカル賞をいっぱいもらったんです。
そうしたら父が『これだけ賞がもらえるのなら、ロックで成功出来るだろう。やりなさい』って許してくれた」
―今22歳でしょ?その若さで、すでに気合の入った人生ですね。
「ステージ魂というか、プロ魂でしょうね。3歳から舞台に立ってたから、どんなに具合が悪くても『歌いなさい』と言われてましたもん。気を抜いて歌うと父にバレますからね。私のライブは必ず見に来ますよ」
―それ怖いなあ(笑)。
「もちろん、父はロックなんかわからないんですよ。ただボーカルの通りがわかるんですね。
歌心…ハートがないと歌は歌えない。父は74歳なんですけど、現役ですよ。自分が歌うことに喜びを感じてるという人。
誰にどう思われたいとか、そんな邪心がないんです。私もやっぱり歌えるっていうだけで嬉しいですね。多分ババアになっても歌ってると思う」
―ひょっとして、憧れのシンガーとか、影響を受けたバンドってないんじゃありません?
「ないです。憧れの人もいません」
―とするとやはり父親の存在がデカいですねぇ、これは。
「そうですね、師匠ですから。稽古の間は完璧に師匠と弟子ですよ。もうお相撲さんの世界と一緒。若乃花、貴乃花と同じ」
―ひえ~!それで作曲するにあたって必要な楽器の弾き方は、どなたから教えられてたんですか?
「独学です。民謡ってヒアリングなので楽譜がないんです。だから楽譜に触れたらハマりましたね」
―ひたすら努力。
「でも自分が楽しいことだから出来るんですよ、きっと」
―夜の街でブイブイしてみたいなんて思ったりしないんですか?
「私、4年間東京に住んでて、一人で渋谷に行ったことすらないんです。
出不精なんでしょうねえ。人込みが嫌いなんで。友達にはよく化石とか天然記念物とか言われる」
―でも、その外界との接触が曲が書けたりするんじゃないのかなあ。
「私はダメですね。でも何億人かの中で、一人くらいはこんな化石人間がいてもいいと思うな」
そう、ひとつ言い忘れていたのですが、晶子さんの楽曲にわたしがいまでも一途に惹かれる理由というのは、「どんな人間でも弱いもの」「どんな人間でも挫けるもの」だということが楽曲の根底に表現されていて、そこには「そんな弱い自分でも、ありのままの姿でなんら恥ずべきことではない。ありのままの自分を信じ(自分を信じる=自信、だと)自分らしく生きることがいちばん大切なことだ」(わたしのブログのタイトルは、それをテーマにした「いつもと違う朝」という楽曲の一節から拝借しています)という、人生を送る上で最も大切なこと、ある種の「尊い人生観」を指し示してくれている、ということでしょうか。
「弱くても、挫けてもいい。失敗してもいい。それが人間としての当たり前の姿なのだから。大切なのは、どうやって自分らしく生きるのか」…そういったスタンスが晶子さんの楽曲の根底には常にあり、それは他のシンガーにはない唯一無二なもので、それに惹かれているのだろうと。
自分の考え方や行動に、実に多大な影響を受けたお方だと感謝しています。
ところで、昨日の記事に続きまして、「YouTube」を拝見していましたら…
「晶子さんのトピック」なるものが出来ていました。それも、チャンネル登録者数が60人(うちひとりはわたしですが)もだとは…
それよりも何よりも、同志の方がこれほど居られるとは、実に心強いばかりです。
さらに見ますと、晶子さんがこれまでにリリースした3枚のアルバムの楽曲もコンプリートされています。これはうれしいものです。
多感な時期に、考え方はおろか、人生観が変わるほどの衝撃的な出会いを晶子さんと果たすことが出来たということは、自分の人生においてとても大きな、有意義なことだったとつくづく感慨にふけってしまいます。
これからも、晶子さんの楽曲に込められた思いというものを大切に、人生を歩んで行こうと思います。いささかおおげさ…ではありません。
今日はこんなところです。