(2015年3月28日アップ分を再編・再掲)
みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「JR九州 全線完乗」を目指す旅、「第1日目」です。
「日田彦山線(ひたひこさんせん)」に乗り、「田川後藤寺(たがわごとうじ)駅」(福岡県田川市)に降り立ったところです。
先日の記事でも触れましたが、この駅には「3路線」が乗り入れています。
いわゆる「交通の要衝」に当たりますが、小ざっぱりした感じの駅舎です(→「いい意味」でですよ)。
駅前商店街に出て来ました。もうすっかり春やなあという感を受ける、店先ののぼりです。
時刻は午後1時を回ったところ。次の列車まで1時間ほどあるので、ここで昼食にすることにしました。
そんな中…ん?「肉肉」とは…しかし、目立つのぼりです。
「小倉名物」とあるのですが、それ以上に「肉肉」が気になります。この「肉うどん屋さん」で昼食を頂くことにしました。
さて、肝心の「肉うどん」なんですが…スイマセン、お店のご主人と話込んでしまい、撮影するのを忘れてしまいました\(^o^)/
主なお品書きは、
「肉うどん」@750円 「肉肉うどん」@850円 とか…だったと思います(何ていい加減な記憶なんでしょうw)
わたしは「肉肉うどん」(通常の「肉うどん」の「肉」が2倍)を注文したのですが、これがまたうまいのなんの!
ダシも効いていて、たまらない味でした。さらに、調理している途中で、「やっぱり、甘辛いダシの方が好き?」(「はい」)とか「生姜多めに入れてもいい?」(「はい」)などと聞いてくださいました。
ところで、「肉肉」を食しながらご主人と話し込んでしまったのですが、「この『田川』は、中心地が二つに分かれているので、初めて来る者にはちょっと分かりづらいんじゃないかねえ」と言う話をされていました。
ヤフー地図より。
確かに、市内にはこの「田川後藤寺駅」と、「田川伊田駅(たがわいたえき)」という、二つの拠点駅があることがわかります。
それについては、前回に続き、
「各駅停車全国歴史散歩41 福岡県」(西日本新聞社編 河出書房新社刊 昭和54年11月初版 絶版)
のお力をお借りし、そのあたりの事情をひもといてみたいと思います(^^)v
かつて最大の炭都 後藤寺・伊田
”田川駅”のない田川市
田川市は飯塚(いいづか、同飯塚市)、直方(のおがた、同直方市)と並ぶ筑豊中核都市の一つだが、飯塚市と同様、鉄道に関しては二つの玄関口があるといってよい(※注釈:「飯塚市」の場合は、「飯塚駅」「新飯塚駅」に相当)。
伊田駅と後藤寺駅だ。けれども、地図を探しても”田川駅”はない。
田川市は昭和一八年、伊田町と後藤寺町が合併して発足したが、駅名だけは当時のままなのだ。
市東部の中心地が伊田駅なら、西の方を向いたのが後藤寺駅といえようか。
都市としての生い立ちも、飯塚、直方両市とは異る。長崎街道の宿場町として発達した飯塚市、一時期ながら城下町としての歴史を持つ直方市に対して、田川市の前身である伊田、後藤寺両町は、炭坑開発の時代とともに生まれた”明治の新興都市”である。
(出典同 P222)
なるほど…かつて栄えた石炭産業、なかんずく、点在していた炭鉱で、両町は隆盛を極めていたそうです。
この記述だけでは、なかなかわかりにくいのですが、「田川市」の前身である「伊田町」と「後藤寺町」というのは、どうやら「お互い少し毛色の違う町」だったようです。
「合併に至った事情」まではちょっとわからないのですが、「田川市」が誕生した昭和18(1943)年というと「アジア・太平洋戦争」の真っただ中なので、ひょっとするとそれが何らかの影響を与えた「合併」だったのかも知れません。
続いて気になったのが、先の「炭坑節発祥の地」と言う碑の写真です。こちらについても、引き続き「歴史散歩」からお力をお借りします。
炭坑節のふるさと
ここで忘れてはいけないのは♪月が出た出た月が出た…の「炭坑節」のことだ。
ことに戦後、全国を風びしたこの歌のルーツについては諸説あったが、この田川で生まれたということで決着がついた。
それによると、明治四二年、当時のヤマの選炭歌(※注釈:せんたんか。採掘された石炭の塊をより分ける作業の際に歌われた唄)を流行歌風にアレンジしたものができた。これが原型になっていまの歌ができ、昭和七年後藤寺の芸者がレコードに吹き込んだことから、”日本の民謡”として広がっていった、というのである。
(出典同 P222-223)
なるほど…「盆踊り」には欠かせない「炭坑節」にもその「由来」の論争があったのですね。また、こんなくだりも続きにありました。
石炭記念公園の計画
田川市役所は、伊田と後藤寺の市街地を結ぶちょうど中間にある。
戦後新築に当って、公平を考えどっちにも片寄らない地点を選んだらしい。
市役所前の道路を歩くと、行く手の真正面に頂上を削られる香春岳(※注釈:かわらだけ)が迫り、その右下に二本煙突が顔をのぞかせる。♪あんまり煙突が高いので…と歌われた、あの三井田川鉱の煙突だ。香春岳と煙突ーこれぞ田川、の風景である。
(出典同 P223)
「実風景」に基づいた「炭坑節」だったことがわかりますね。
また、駅前にはこんな看板も。
「日本初 山本作兵衛氏 炭坑記録画・記録文書 ユネスコ「世界記憶遺産」登録」とあります。
「炭坑黄金時代」の採掘の様子を、絵画とともに解説文書で残されたものです。
この「ユネスコ登録」は、テレビ・新聞で報道されていたのを覚えています。
これについては、再度、先の文献から引用させて頂きます。
むかしのヤマ風俗描く山本さん
田川市には、かつての炭鉱住宅、いわゆる炭住六〇〇〇戸の大半が、まだ残っている。
棟割長屋式の炭住街は、盆、正月の楽しみも、坑内事故の悲しみも、ともに分け合う運命共同体的なぬくもりがあった。
けれども、時代をさかのぼればさかのぼるほど、坑夫をヤマにしばりつけた納屋制度、夫婦が一組になって人力で石炭を掘り出す先山・後山制度など、辛く暗い一面も色濃く表れてくる。市内の上弓削田に住む山本作兵衛さんは、明治三二年八歳の時から坑内にはいった体験をもとに、ヤマの仕事と暮らし、人情の表裏を絵筆に託して記録し続ける。「筑豊炭鉱絵巻」はその作品の一つだ。
(出典同 P225)
「炭坑での仕事」はかなりの肉体労働で、さらに落盤や爆発などの事故もあり、まさに命がけだった、という話はさまざまな文献などからも読み取れますが、まさにその現場で実際に働いていた方の体験談を基にした作品ですから、そこに込められた説得力と言うものは、見る者に対してきっと「相当に鬼気迫るもの」があるのでしょう。
それも坑内作業の内容だけでなく、上記の引用にもあるように「働く人たちの強い絆」というものも、きつい仕事を共有する中で「お互いの助け合い」が自然に育まれたのかも知れません。
本当に大変な仕事だったに違いありません。
日本が戦後、高度経済成長を成し遂げることが出来たのも、このような厳しい労働環境の中で、まさに「命をかけながら働いていた人々によるもの」というのは、相違ない事実なのではないでしょうか。先人の方々のご苦労に深く敬意を表したい、というのが今回の記事を上げるに当たってさまざま調べた中で感じた、わたしの「正直な感想」です。
そんなこんなで、30分ほどご主人と炭鉱のあった頃などのことなど、さまざま話込んでしまいましたが、地元の方の話を聞けるというのはまた「旅の大きな醍醐味」でもあると思っているので、いい収穫でした。
ありがとうございました。
次回に続きます。
今日はこんなところです。