【再編集UP】JR九州 全線完乗への道!~一部区間をBRT化へ…日田彦山線乗車記⑤ | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

(2015年3月27日アップ分を再編・再掲)

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

「JR九州 全線完乗」を目指す旅、「第一日目」の様子をお送りしています。

 

 

「日田駅(大分県日田市)」から「日田彦山線(ひたひこさんせん)」のディーゼルカーに乗り、のんびりと田園風景を楽しんで来ました。

「田川後藤寺(たがわごとうじ)駅」(福岡県田川市)に到着したところです。

 

 

さまざまな列車が停車していますが…

この「田川後藤寺駅」、実は「交通の要衝」として知られている駅でもあります。

 

 

ヤフー地図より。この駅には「日田彦山線(ひたひこさんせん)」「後藤寺線(ごとうじせん)」、そして「平成筑豊鉄道 糸田線(いとだせん)」の合計3路線が乗り入れしています。

 

 

 

 

ということで、駅構内には乗り換え案内がいっぱいです。

なかなか複雑で、慣れていない者にはちょっと迷いそうな感じがします。

 

 

ところで、こちらは「国鉄監修 交通公社(現在のJTB)の時刻表」 昭和54年3月号 巻頭の索引地図より。

「後藤寺駅(当時)」周辺を見ますと、これはすごいなあと驚きます。

まさにこの地域、小規模な路線がひしめき合っていて、覚えきれないほどの複雑さです。

 

この当時、「JR」は「旧・国鉄」。

また、石炭黄金時代を象徴する、炭鉱から産出された石炭を輸送するために建設されたローカル線が、入り組んだ網の目のように残っていた時代でした。

駅名も「後藤寺駅」「伊田駅」となっていますが、この書籍が発行された3年後、昭和57年3月に、市名を冠した「田川後藤寺駅」「田川伊田駅」へと改称されるに至りました。

 

 

そして、40年以上経過した「JTB時刻表 2020年3月号」巻頭の索引地図より。

「JR九州」になる直前、昭和の末にかけて小規模な路線は廃止が進められ、だいぶ大きく路線網が変わっていることがわかります。

 

「日田彦山線」「後藤寺線」は現存する路線です。「後藤寺駅」から分岐する「国鉄糸田線」、隣の「伊田駅(いたえき、同)」から分岐する「国鉄伊田線・田川線」は、第三セクターの「平成筑豊鉄道」に経営転換され、現在も運行されています。

 

 

ところでこちらは、前回の記事でもご紹介しました、

「各駅停車全国歴史散歩41 福岡県」(西日本新聞社編 河出書房新社刊 昭和54年11月初版 絶版)

からですが、当時の「後藤寺駅・伊田駅周辺」の路線図が掲載されていました(同P225より)。

 

気になったのは「伊田駅」から分岐し、「田川線」を乗り越していた「国鉄添田線」。

なぜか「田川線」と交差する箇所に乗換駅がなく、「添田線」の側に「上伊田(かみいた)」という駅が別にあります。

これは、もともと設立した鉄道会社がそれぞれ異なっていたためで、その名残が当時はありました。「添田線」はもう廃線になっています。

 

 

さらに、その「昭和54年3月号」の「日田彦山線」「田川線」「漆生線(うるしおせん、現在は廃線)」「上山田線(かみやまだせん、同)」の時刻表から。

 

「日田彦山線」はこの先、北方向に進むと北九州市の中心地、小倉・門司・門司港方面へと直結しています。

そういったことで、これら方面からはいまはまったく姿を消してしまった「急行列車」がいくつか運行されているのが目に留まるのですが…

 

 

その中で、いまでは想像もつかない、ものすごい?列車を見つけました。「急行 あきよし」号(赤い□)という列車です。

 

「後藤寺駅」には午後12時05分着、同07分発。

「日田彦山線」をさらに南下し、「夜明駅(よあけえき、大分県日田市)」から「久大本線(きゅうだいほんせん)」へ。

その「天ヶ瀬駅(あまがせえき、同)」に至る列車なのですが、始発駅は「江津駅」、それも午前5時52分発とあります。これを、始発駅へ向かってさらにページを遡って行くのですが…

 

 

最初は、なんと「山陰本線」のページにたどり着きました!

 

 

そう、「江津」とは「山陰本線」の「江津駅(島根県江津市)」(赤い□のことでした。

 

「急行 あきよし」号は、ここから「山陰本線」→「美祢線(みねせん)」→「山陽本線」→「鹿児島本線」→「日豊本線(にっぽうほんせん)」→「日田彦山線」→「久大本線」…と経由する、超ロングランな列車だということがわかりました。

 

 

ちなみに、始発駅の「江津」から少し東へ行きますと、もう「出雲市」や「松江」、さらに「宍道湖」にも近いところです。

山陰地方も中央に当たるこのような場所から、北部九州のさらに奥深いところまで直通列車が運行されていたとは、現在では考えもつかないものです。

 

「あきよし」とは、経由地「美祢線」沿線にある名勝「秋吉台(あきよしだい)」から採られたものですが、これらの区間を直通して利用する乗客というのは果たしてどれくらい居たのかな?と、気になって仕方ありません。

 

 

また「なぜこの列車の始発駅が江津だったのか?」という疑問も湧いて来ます。


江津からは「三江線(さんこうせん。一昨年の2018年春に全線が廃止)」という路線が延びていて「三次駅(みよしえき、広島県三次市)」へとつながっていました。

もっと言うと「三次駅」からは、当時は急行列車が割に走っていた「芸備線(げいびせん)」で広島へ抜けることも出来ましたから、陰陽連絡を考慮したもの?さてはて、そもそものルートのように、山陰地方の中央部から、北部九州各地への直通を純粋に企図したもの?などと、果てしなく妄想は広がります(笑)

 

 

とはいえ、「日田彦山線」の東隣を通っている「筑豊本線(ちくほうほんせん)」の方はもっとすごくて、本州方面(主に京阪神から)と直通していた「寝台特急 あかつき号」や「特急 かもめ号」などが運行されていたことも、この時代の時刻表から窺うことが出来ます。

 

40年前というと、このあたりの炭鉱の閉山が相次いだ時期だということですが、それでも、経済的な影響力というのは多大なもので、用務客がたくさん利用するがための列車設定だったのだなと、時代を感じます。

 

次回に続きます。

今日はこんなところです。