みなさんこんにちは。今日の話題です。
手元の人気鉄道模型「鉄道コレクション」を愛でながらあれこれ語るというシリーズをお送りしています。

本日、取り上げるのは「北大阪急行7000形2両セット」です。
大阪の大動脈「大阪市営地下鉄(現在はOsaka Metro)御堂筋線」と相互乗り入れしている、北急(きたきゅう)の名で親しまれる「鉄道会社限定」で発売されたものでした。シルバー一色の車体が目に鮮やかです。

さっそく、裏面には解説。

その「7000形」が走る向こうには、なにやらさまざまな形をした大きな建築物が立ち並んでいます。その手前には「モノレール」も見えますが…
これは、昭和45(1970)年にアジアで初めて開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」の会場です。
これは、昭和45(1970)年にアジアで初めて開催された「日本万国博覧会(大阪万博)」の会場です。

北大阪急行は、この「大阪万博」の観客輸送を目的に開業した路線です。
期間中には会場中央口の前に「万国博中央口駅(大阪府吹田市)」を臨時に設け、新大阪・梅田・なんば・天王寺と、大阪市内の主要なターミナルを貫く「地下鉄御堂筋線」と相互乗り入れを行い、総入場者数の約3〜4割に当たる、約2000〜2400万人余りを輸送する「メインルート」としての役割を担いました。
期間中には会場中央口の前に「万国博中央口駅(大阪府吹田市)」を臨時に設け、新大阪・梅田・なんば・天王寺と、大阪市内の主要なターミナルを貫く「地下鉄御堂筋線」と相互乗り入れを行い、総入場者数の約3〜4割に当たる、約2000〜2400万人余りを輸送する「メインルート」としての役割を担いました。
その北急の万博輸送に合わせて登場したのが「7000形」でした。

万博開催当時、会場最寄りの「万国博中央口駅」へ向けて北急線内を走る列車。
走行しているのは、相互乗り入れしていた大阪市交通局の「30系」。
「日本の私鉄18 大阪市営地下鉄」(赤松義夫・諸河久共著 昭和57年初版 保育社刊)より。

半年にわたる観客輸送の後、北急は千里ニュータウンの主要な交通手段となったのですが、万博輸送のために建造された「7000形」は余剰となり、大阪市交通局に売却され「30系」としてあらたなスタートを切りました。

毎度おなじみ「Wikipedia #大阪市交通局30系電車」より。こちらが谷町線で運用されていた晩年の「30系」。
「7000形」と外見がそっくりですが、それもそのはず、これら一部の車両は万博閉幕後に大阪市交通局へ売却し「30系」に編入されることを前提にして建造されました。
「大阪市交通局」の車両となった後、相互乗り入れをしている「御堂筋線」をはじめ他線でも幅広く運用されました。

では、この「7000形」を見てみたいと思います。運転台のある車両が「7001形」です。

運転台つき車両を正面から。向かって左側、車掌台側の窓が小窓になっているのが特徴でしょうか。
また、腰下には波状のコルゲート板が取り付けられているのも目立ちます。

これを側面から。正面のコルゲート板は側面の腰下にも続いています。
また、非冷房ということで屋根上には細長い特徴的な通風機が連なります。
しかし「まったくの無塗装車両」ということでシルバーが際立ちます。
大阪市交通局へ譲渡された後年には、コルゲート板の部分や正面の貫通扉にラインカラーが入れられ、また異なる趣きになりました。

運転室付近をさらに拡大。客用扉も小窓なのが「7000形→30系」の特徴でしょうか。
余談ですが、幼少の頃に「30系」に乗った際、その小窓の位置ゆえ外が見えず、とても高く感じたのをよく覚えています。

先頭車両の台車には、前回の記事でも触れた「第三軌条の集電板」が取り付けられています。
線路の横に設けられた、電力の流れているレールからこの集電板で走行に必要な電力を供給していました。

続いて、中間車両が「7301形」。こちらにもコルゲート板が取り付けられています。

これを並べたところ。しかし「シルバー一色」ということで「デザイン性」よりも「大量輸送に特化した」とか「機能的」という印象を強く受けます。

2両の屋根上も拝見。パンタグラフがなく、さらに通風機のみの設置ということで実にこざっぱりとしています。

最後に、付属のステッカーを見てみます。

「万国博中央口」や「EXPO70万国博」の行先表示に、いまから50年近く前の「大阪万博当時」、すなわちこの「7000形」登場直後の仕様が再現されているのが窺えます。
しかし「万国博」の表示を見るだけで、実際に「大阪万博」を体験したことがないのにも関わらず、なんだかわくわくしてしまいます。

ということで、大阪の歴史を語る上で外すことの出来ない出来事だった「大阪万博」を陰で支えた「7000形」をあれこれと見て来ました。
この「大阪万博」直前には、世界でも例を見ないほど急ピッチで北急と相互乗り入れする大阪地下鉄ではその建設が進められ、現在の路線網の骨格が形づくられたそうです。

「大阪モノレール 万博記念公園駅(同吹田市)」から「大阪万博」会場跡地に整備された「万博記念公園」の中央ゲートへ向かう道すがら、モノレールと中国自動車道、大阪中央環状線を越える陸橋から。言わずと知れた「太陽の塔」がもう目の前です。

その陸橋から。モノレール駅の右側、現在の「中国自動車道 中国吹田インターチェンジ」付近に「北大阪急行 万国博中央口駅」が設けられていました。
会場の近くに建設された北急の「万国博中央口駅」は万博の閉幕後廃止され、路線も手前の「千里中央駅」が終点に改められました。
大量に押し寄せる万博の観客を無事に運び終えた後は、一大ニュータウンとなった千里丘陵の重要な足として活躍した「北急」と「7000形」。
製造からものの2年ほどで大役を果たし、その後は売却と、俯瞰してみますと大役を担ったながらも数奇な運命をたどった車両だったのだなと感じます。
今日はこんなところです。