みなさんこんにちは。今日の話題です。

年末に発売された人気鉄道模型シリーズ「鉄道コレクション 第25弾」を開封しつつ、そのラインナップを順繰りに細見してあれこれと語る、ということをしています。

さて、パッケージを順繰りに開封している中、前回では、オレンジ色に身をまとったこの「国鉄電車2種」を取り上げました。

ラインナップのひとつ「クモハ20015号車」。

そして「クハ25103号車」です。しかし、開封していると予期せぬことが…

パッケージデザインにない、この車両が入っているではないですか!
今回の第25弾の「シークレット商品」、「クモハ20102号車」でした!





運転台がついていない「妻面側」には、小窓が設けられています。
かつては、乗務員用扉があったのを撤去したようにも思えるのですが、こちらにもやはり、丸いカーブがかけられているのがわかります。


妻面側を拡大してみます。戦前製ということですが、この顔付きを見るに、登場当時はやはり、こちらにも運転台が取り付けられていたようです。

昨日の記事で取り上げました「クモハ20015号車」(右)と並べてみます。
よく似た顔付きではあるのですが、繰り返しになりますが、やはり「窓形状の違い」が目に留まります。
ところで、戦前製にも関わらず、この先進的な、優雅なデザインをした車両が登場したのには、この車両が昭和40年代まで走っていた「国鉄阪和線」の出自、つまり、その前身の「阪和電気鉄道」という、昭和初期としては相当な高規格で建設された、この一私鉄に関係があるようです。

ここからは毎度おなじみ「Wikipedia #阪和電気鉄道」の力をお借りしたいと思います。
阪和電気鉄道(はんわでんきてつどう)は、昭和初期の関西の鉄道会社。現在のJR西日本阪和線を建設した。
1926年に設立され(路線免許交付は1923年)、1940年に南海鉄道(現在の南海電鉄)に合併された。営業不振や政府の交通政策などの事情故に会社法人としては短命であったが、戦前の「日本一速い電車」である「大阪 - 和歌山45分」ノンストップの「超特急」を運行したことで、日本鉄道史上、一種の伝説的存在として記憶される。
ここにあるようにもともと「JR阪和線」は、昭和初期に誕生した、大阪・和歌山間を極力直線で結ぶことを目的に、主に京阪電車の資本で開業した「阪和電気鉄道」という会社がそのはじまりでした。では、続きをどうぞ。
当初は、新京阪線(現在の阪急京都線)同様の規格で、高速運転に有利な1,435mm軌間での建設も考慮されていた。この当時、鉄道省(現在の国土交通省)は南海鉄道の買収に失敗し、また同線に並行する大阪 - 和歌山間を結ぶ省線の新規建設も、折からの財政難で不可能となっていた。このため、建設中の国鉄紀勢線は、路線を欠いて半ば宙に浮く事態となった。
それゆえ、渡りに船とも言える内容を備えたこの阪和電鉄の申請に対し、鉄道省は将来の国家買収を視野に入れた付帯条件をつけて免許を交付した。この結果阪和電鉄線は、必然的に国鉄と同じ1,067mm軌間で建設されることになった。この選択は、国鉄からの貨車直通、さらには当時建設が進行していた紀勢線への直通をも可能とするもので、その点では営業上有利であった。
既存の南海鉄道が大阪湾岸の紀州街道および孝子(きょうし)越街道沿いの都市を経由したのに対し、阪和電気鉄道はそれよりやや内陸寄りの農村地帯に敷設され、極力直線的なルートを取り、高速運転に適合した線路設備が整えられた。また、(大阪・和歌山府県境の)和泉山脈越えでは南海が避けた紀州街道の雄ノ山峠越えを選択し、距離の短縮に努めている。架線電圧も、路面電車並の低圧な直流600Vであった南海に対し、当初からより効率が良く高速向けの直流1,500Vとされた。電力については、開業の段階では大阪方面は宇治川電気から、また和歌山方面は京阪和歌山支店からそれぞれ供給を受けた。
戦前の京阪は、明治末期に開業した「京阪本線」にカーブが多く、高速運転が出来ないがために、大阪・京都間を高速で結ぶため、本文にもあるように「新京阪線(現在の阪急京都線)」という路線を建設しました。
現在では想像もつきませんが、それに付随し、京阪は和歌山方面への進出も企図していて、その最たるものが、昭和初期に誕生した、大阪・和歌山間を極力直線で結ぶことを目的に、主に京阪電車の資本で開業した「阪和電気鉄道」という会社でした。では、続きをどうぞ。
1929年の開業当初より、狭軌鉄道の電車としては当時日本最大級の、強力な全鋼製電車を投入し、高速運転を実施した。
大出力モーターを装備した大型電車によって、線形の良好な高規格新線で高速運転を行う、という米国のハイスピード・インターアーバン(高速都市間連絡電車)流のコンセプトそのものは、1927年に開業した京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道(現・阪急京都線)と共通のものである。(中略)大都市近辺の路線を中心に路線や車両の高規格化を行って生き残りを図るケースがあり、これを見習ったものと考えられる。
主力車となった全長19mの大型電車モヨ100形・モタ300形(今回の「クモハ20015号車」など)等は、腰高で屋根が高く、窓も小さく、さながら装甲車両を思わせる物々しい外観を備えていた。実際にきわめて頑丈な構造で、電動車では公称値で47t - 48tもの超重量級に達したが、電動車1両で600kw(800日本馬力)の大出力は、それを補って余りあるものであった。この系統の電車群は1937年までに合計48両が製造されている。
という感じで、当時、大阪・和歌山間を結び「日本最古の私鉄」として知られていた「南海鉄道(現在の南海電鉄)」の強大なライバルとして君臨することになります。
先進的で豪華な内外装の車両も多く存在しており、この「クハ20513号車」や「クモハ20512号車」などに見られる、実に優美な外装は、その「南海鉄道とのサービス上での差別化の現われ」とも言えるもののようです。
しかし、時局が第二次世界大戦へ突入していくさ中、この「阪和電気鉄道」も、国策によりライバル「南海鉄道」へ合併され、同社の「山手線」に、そしてほどなく国有化され「国鉄阪和線」となり、JRを経て現在に至っています。

国有化された戦後は、本来であれば、引き継いだ車両はすべて廃車され、国鉄仕様の電車が投入されるところなのですが、先述したように、戦前製とはいえ「阪和電気鉄道」は当時としては破格の高規格で建設されていたことが幸いし、これら車両は、昭和40年代に至るまで、現役で活躍することが出来たようです。
そして現在でも、その「阪和線沿線」には、昭和初期の「阪和電気鉄道」時代を思わせる「遺産」が、平成に入ったいまでも、垣間見られることが出来ます。わたしも、いろいろと巡ったことがありました。
その記事はこちらもどうぞ↓
当ブログ「阪和電気鉄道 昭和初期の面影 その3 紀伊中ノ島駅」
(2010年5月17日アップ 沿線の「阪和電気鉄道時代」の遺産を巡った、シリーズものです)

そういったことで、ある種、特殊な歴史を持った「阪和線」の歴史の一端を再発見することの出来た「シークレット」を含む、「阪和電気鉄道」からの歴史を持つ、この「オレンジ塗装車両」の3両について触れてみました。
しかし、まさかシークレットが当たるとは…今年の運を使い果たしたようです(笑)でも、引き当ててうれしいのは間違いないのですけれど…
次回に続きます。今日はこんなところです。