JR北海道 全線完乗への道!その34 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。

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表題の旅も最終日、第3日目となりました。
「滝川駅(たきかわえき、空知管内滝川市)」から「中央バス」に乗車、「新十津川町(しんとつかわちょう)」に向かっています。

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出発して5分ほど、石狩平野の中央を流れる「石狩川(いしかりがわ)」を渡ります。川幅が広いこともあり実に長い橋で、河川敷にも豊かな緑が見られます。

この橋を渡ると、いよいよ「新十津川町」です。

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さて、滝川駅から乗車して来た「新十津川役場ゆき」ですが、途中の住宅街でひとり、ふたりと下車して行きまして、ついにわたしひとりになってしまいました。

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滝川駅から15分ほどで「新十津川役場前」停留所に到着。
思ったより「滝川」に近いということに少々驚いた次第です。

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停留所の名称の通り、目の前には「新十津川町役場」があります。
敷地内をあちこち見まわしていますと…

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立派な石碑がありました。「町民憲章」、ここのみならず役所でよく見かけるものですが、気にとまったのがその内容です。

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…わたしたちのまちは、十津川郷からの団体移住によってひらかれ、たくましい開拓精神と団結の力できずかれた由緒あるまちです…

今回、道内を旅する中で、あちこちで「明治期の北海道開拓史」に接することが多くありました。こちらの「新十津川町」もその例外ではなく、道外からの移住民による大規模な開拓でもってつくられた街でした。

では、そのあたりの事情について…
今回の旅のお供、「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編・河出書房新社刊 昭和54年6月初版 絶版)から拾ってみたいと思います。

奈良県に母村を持つ 新十津川

母村・奈良県十津川郷から大挙入植
 札沼線の開通は新十津川はえ抜きの町民にとって、苦闘の数十年が実ったことを証明するものだった。
 明治年間、北海道には数十人、数百人といった集団移住の例があちこちでみられるが、新十津川への移住は二○○○余。これほど大がかりなものはほかにない。この空前そして多分、絶後の集団移住をさせたのは母村の水害だ。
 
 母村は奈良県の十津川郷。ここは奈良県南部の山村だが、明治二二年八月一八日から一九日にかけ未曾有の豪雨に見舞われた。十津川郷は六ケ村からなり、合わせて二四○三戸、一万二八六二人の住民をかかえていたが、地すべりは渓谷をせきとめ多くの家屋や田畑を濁流にのみ込んだ。
 数字でみると全壊・流出四二八戸、半壊一八四戸、死者一六八人を出し、水田の五○パーセント、畑の二○パーセントが流出したというからもうメチャメチャだった。
 そこで出てきたのが北海道移住の話。東京在住の十津川村出身者が段どりをつけ、「北海道移住新十津川創立勧告書」を郷里に送る。文中にいう―

「試ニ之(北海道)ヲ我郷ト比較セヨ。彼開闢(かいびゃく)以来未ダ嘗(かつ)テ斧ノ入ラザル鬱蒼(うっそう)タル森林ハ我郷既ニ伐尽(ばつじん)スル処ノ山林ノ及ブ所ニ非ザル也」
(現代語に意訳してみると…「試しに、北海道とわが故郷の十津川村を比較してみなさい。いまだかつて斧を入れたことのない、一切開発されていない鬱蒼とした森林は、既に伐採され尽くしているわが村の山林の様子とは比較にもならないものだ」…といったところでしょうか)

「十津川村」といいますと、奈良県南部、和歌山・三重と県境を接し、豊かな自然で殊に関西では人気のある「秘境」として知られています。

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昨日の「NHKニュース」、その天気予報より。
関西人のわたしとしては毎日、目にするおなじみの画面なのですが、その区分でいうと「奈良県南部」に相当するのが、その「十津川村」を周辺とした地域です。

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もっと細かくみますと、赤い○あたりに相当するところです。

先ほども触れたように「豊かな自然」というイメージが一番なのですが、相当に急峻な山岳地帯であり(面積も「県の5分の1」を占める広大な村)、それゆえ古くから自然災害にさいなまれて来た史実があります。

ですが、そんな自然豊かな故郷を離れ、遠く北海道へと十津川の人々がやって来たのは「未曽有の豪雨による被害」だったとは知りませんでした。

記述を見るだけでも、村が壊滅したといっても過言ではない悲惨な状況であったことが伺い知れます。そんな中、故郷の復旧を見ずして、生きていくために、はるばる北海道にやって来た十津川の人々の心境たるや、容易く想像の及ぶところではありません。

では、続きます。

 そんなに魅力的なところだというのだが、半面入植の前途の困難を予想させるものだった。
 しかし郷里はすでに家も土地もない。呼びかけに応じて六○○戸、ニ六九一人が移住を決意するのである。
 そして一○月中旬から三班にわかれて十津川郷を出発、その年の冬は新十津川郷の隣の空知太(そらちふと、現在の滝川市)に建設中だった屯田兵屋で越冬し、翌二三年夏から「樺戸郡トック」(注釈:樺戸郡=かばとぐん、この周辺が現在、所属している郡名、トック=アイヌ語で「小山」を意味する)といっていた今の新十津川に入植するのである。この入植地は道庁で決めたが、どこへ行こうとも入植地には新十津川と命名するつもりだった。こうして奈良十津川郷の分村が北海道に誕生したのである。

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役場の敷地内には、この「望郷の碑」なる記念碑がありました。
故郷の大水害、そして「樺戸郡トック」への入植から100年超、新十津川町の起源となった十津川村を、現地の人々は「母村(ぼそん)」と呼んでいるそうです。

望郷会四万人のふるさと
 ところが移住してからも水害に悩まされ続ける。まだ堤防の完備していない石狩川は春になると氾濫を繰り返した。
 それを克服してつくりあげたのがいまの新十津川町。人口一万人弱。
 昭和五○年には道内外の他市町村に住む新十津川出身者によって「望郷会」が結成された。四万人の会員がなつかしがる郷里とはもちろん新十津川である。

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現在でも、この二つの町村の間には深い交流があり、互いに職員を派遣したり、さまざまな場面で協力を図っているそうです。

それを象徴するひとつが、画像下の「新十津川町役場」の看板に見える「町章」で、本家の「奈良・十津川村」のそれと同じものを使用しているそうです。

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また、庁舎の駐車場には「陶芸まつり」の告知がありました。
現地では大変人気のある著名なイベントなのだそうですが、こちらももともとは「奈良・十津川村」で展開されていた窯業産業に由来するものだとのこと。

大阪に住むわたしとしては、隣県として名称を知る「十津川」ですが、そこを源流とするつらく厳しい史実があったことと、加えて意外なところで関西とつながりがあったことに驚きを禁じ得ませんでした。

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さて、その「新十津川町」の鉄道の玄関口は、この役場からほど近い「新十津川駅(しんとつかわえき)」です。
ここからは、この駅に発着している「札沼線(さっしょうせん)」に乗車することにしています。

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役場をあとに、さっそくその「新十津川駅」に向かうことにします。

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壮絶な歴史が繰り広げられた「奈良・十津川村」、そしてこの「北海道・新十津川町」でした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。