本日は、親父が書きます! 長文になりますので悪しからず!
あの未曾有の震災から、1年が経ちました。まずは、多くの犠牲者の皆様にあらためてお悔やみを申し上げます。合掌!
この1年間自分なり振り返って見ると、あの日の事を忘れない為にも備忘録を残しておこうと思います。
あの日、週末の金曜日 私は、東京新橋にある会社で通常の勤務を行っていました。すると横に大きく揺れを感じました。揺れは、今までに経験をした事のないビルを東西の方向に大きく降り始めました。ビルの5階でしたが、退路を塞がれるのを恐れ入り口を開け室内に居りました。揺れは、長く続き天井の吊り下げ式の蛍光灯が2本程落ちました。その瞬間に蛍光灯が一斉に消えました。後で分かったのですが、蛍光灯が落ちる際にショートして、蛍光灯の系統のブレーカーが落ちていました。(停電は有りませんでした。)
窓の外を見ると正面のビルとの左右に大きく振れるのを確認できました。
収まった段階で、電話、パソコンの回線 電気 水道が、問題のない事を確認しました。大きな揺れの割には、前述の蛍光灯以外は、まったく倒れたり落ちたりした物は有りませんでした。(近くのビルでは、机のパソコン、ファイルラックの転倒と大きなダメージを受けた所も有ったようです)
揺れが収まった段階で、女子社員は、災害避難地区の小学校跡に避難させました。その段階で、固定電話で都内の代表宛に簡単に連絡が取れ状況を報告する事ができました。
自分は、これが何処が震源地なのかをネットで確認を取り始めました。どうも宮城県沖が、震源地であるという事を知り、300Km以上離れた宮城の地震が東京を此れだけ揺らした事に驚きました。そして、宮城沖ということで、自分的には、津波を心配しました。亡くなった父が石巻出身でしたので、過去の日本やチリの地震による津波被害を聞かされていたからです。案の定ネットでは、大津波警報を太平洋岸日本全域に警鐘し始めました。
そして、余震が、15時15分頃だったでしょうか、先ほどに負けないぐらいの大きな揺れが有りました。私的には、こちらの揺れの方が大きかったように思えます。しかし、この揺れにもほとんど事務所の被害は有りませんでした。その後も、何度のなく大きな余震が続きました。念のために東京湾の満潮等も調べ 午後21時頃である事を確認しました。そして、ネットからはどんどんと地震の被害以上に津波の被害情報が入り始めました。
・自分達の身の安全の確保 これは、ある程度余震が収まるまで、避難地区へ退避 外出していた人間とは、その日には、連絡が取れませんでした。
・家族の身の安全の確認 これが、けっこう大変でした。固定電話、携帯では、当分繋がりませんでしたので、みんなには、会社のPCメイルで、家族の携帯、PCメイルにこちらの無事を確認を発信しておくように言いました。(あとで聞いたのですが、携帯メイルは、それが届いたのは、かなり夕刻の遅くなってからという事でした)
・帰宅の有無 夕方の17時頃で社員には、会社で止まるも良し、帰るも良し自己判断に任せました。(其の時点では、東京の交通機関は、電車は全て止まっていました。バスは、動いてはいましたが、既に交通大渋滞のため、人間の歩きの方が、速かったようです。)恥ずかしい話ですが、私の会社のように十数人の零細企業では、こうゆう際のマニュアルという物は、全く作っておりませんでした。
結局 家族の連絡が取れないという事で、全員帰路につきました。女性には、新橋、東京駅の周辺のホテルが、暖を取らせてくれる事を伝えなるべく電車の動き出すまで、退避するように指示しました。(結局帝国ホテルのロビーで、朝を迎えたようです。)男性陣は、歩いて帰れた者と結局途中で諦めて会社に戻って一晩明かした者がいたようです。
さて、私は、実はその日の夜に用が有ったために、会社には自動車で出勤しておりました。そして、海よりのビルの地下に駐車をしておりました。
18時に最後事務所を出た私は、頭の中には、東京にも津波の被害は有る、停めた車が、津波に襲われるであろうという事が、頭をよぎり まずは車を高台に退避させようと言う事で、車をスタートさせました。しかし、其の頃には、東京の主要幹線道路は、大渋滞で動きを遮断されておりました。唯一、新橋方面から、自由が利いたのは、湾岸よりの道路でした。とりあえず津波の恐怖を感じつつ、湾岸道路を西方向へと進みました。品川の天王洲付近までは、順調に進みましたが、そこからは、横にも縦にも全く進まなくなりました。幹線道路以外は、走るのですが、南北に走るためには、途中 東京と横浜方面を結ぶ幹線は、大渋滞の上、徒歩で帰宅する人間でごった返しておりました。
車には、携帯、iPhone、パソコン、モバイルルーターと通信手段は、色々と用意が有りましたので、iPhoneとモバイルルータの組み合わせで、スカイプで、ぽちょむすきんのラップトップのPCを通じて連絡が取れました。(地震時、あにやんも休みで全員家にて、被害もまるでない事を確認できました) しかし、其の当時自宅の横浜は、地域一帯が停電で、復旧したのが23時頃だったそうです。ガス、水は問題なく使えたので煮炊きはできたようです。
車には、TVが付いていたので、途中災害の状況、津波状況を時々刻々と知る事ができました。車も幹線ごとに時間を要しましたが、裏の道を進んで、少しづつ家には、近づくとともに津波を免れるポイントまでは、達する事ができたました。
その時の自分の頭には、余震が段々と東京に近づいて行く事を感じていました。その事を想定して方針を変え、コンビニを見つけては、電池、携帯充電器、飲み物、食べ物、ガスボンベを有れば、購入ししつつ そして、腹が減ったので、途中 開店していた中華屋さんで、腹を膨らす事もできました。また、すっからかんだったガソリンも満タンにする事ができました。(これは、後々大変助かりました)
東京と私の住む神奈川県には、大きなトラップが有ります、第1級河川多摩川です。此の川を渡らない事には、家に着く事はできません。此の川には、下流から私の住む地域までには、10本ぐらいの橋しか有りません、そのうちの4本は、高速道路で、当時まだ閉鎖状態でした。途中パソコンで、渋滞情報 ツイッターで情報を取りつつ 世田谷に住む姉とも連絡が取れ、最悪は川を諦めて泊めていただける事も了承を得ました。
もう其の段階では、東京の津波に関する影響もまず大丈夫である確証も取れていたので、姉の家を目指しつつ家へ向かいました。世田谷の付近で、既に23時ぐらいになっていました。併せて家にいるぽちょむすきんに橋の状況をネットで調べさせいた所、国道246号は、それ程時間を掛けずに渡れるという情報を得て、それに従いました。
日を越える頃、電車も動き始めている情報も入って来始めました。
何とか20分程で橋も渡り終えるとそこからは、地の利の有る私に取ってはさほど混まずに家に着く事が出来ました。大体1時頃でした。
家もお陰さまで、停電普及し 大きなダメージも有りませんでした。
今から思うと自分の取った行動は、随分と身勝手であったとも思います。しかし、これが一つの教訓にもなりました。
我々は、本当の被害地の方から見れば、本当に恵まれてもおりました。その日から、何の不便も無く1年間を過ごす事も出来ました。また、新たなる家族を迎え入れ今を迎えています。
有る意味、もう一度気を引き締め直し今後の来るべく災害等への用意をおこたわぬよう、して行こうと思います。
随分と長い備忘録になってしまいました事をお許し下さい。
最後にわが家の平和の象徴を!
ではでは
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