2010年11月
退院後、地元の中学校に戻るという選択肢は私の中には無かった。
左半身麻痺、車椅子でオムツのKの体では、元の普通の中学校では到底やってはいけない。



Kの気持ちを確認すると、たった一月だけしか通わなかった地元の中学校に未練は無いようだったので、近くの肢体不自由な子を受け入れてくれる特別支援学校の話をしたら、私達の心配をよそに、Kは乗り気で自分から見学に行きたいと言った。



早速、学校に連絡し、事情を話して、旦那も一緒に見学に行った。
担当の先生が校舎を案内して下さり、各教室やトイレなどの設備を見て回った。感染の心配があるので、Kはごく短時間、達とは別々に見て回った。


入り口や廊下は普通の学校よりずっと広く、スロープも設置され、車椅子での生活に支障がないようよく考えられた造りで感心した。
また、ほとんどの子がオムツらしく、トイレは先生の介助があるので安心とのことだった。



色んなクラスを見て回ったが、その中には、特別なベッドのような車椅子に乗せられた、意思の疎通も一見難しく思われるような重度の障害を持つ子もいた。
子ども1人につき1人の先生がついているような状況だった。



途中、私は不覚にも涙が溢れて止まらなくなってしまった。どうしてここに自分がいるのか訳が分からなくなったのだ。涙は生徒さん達に失礼な気がして、必死に抑えようとしたが、涙が後から後から溢れ出て来るのを止められなかった。その時Kが一緒に居なくて良かったと思った。



Kが入ることになるクラスは、身体的、知的レベルでは最も普通級に近いクラスで、人数は7人ほどだった。
そのほとんどの子が生まれつきの障害を抱えており、病状は比較的落ち着いていた。
Kのように進行性の病気を患っている子は、Kの他に1人だけだった。



クラスのみんなは先生からあらかじめKのことを聞いていたらしく、教室に入ると、みんなとても積極的に親しげに話しかけてきてくれた。その明るく純粋で物怖じしない様子が、こちらの不安を吹き飛ばしてくれた。



その中の一人の男の子はKより1つ歳上で、女の子ばかりのクラスなので、Kが仲間入りするのをすごく楽しみにして待っていると言ってくれた。
Kと気が合いそうな子だなと思った。愛情かけて育てられた子らしい自然な明るい笑顔の男の子だった。その子の無邪気な笑顔にホンワカして、気が付くと涙もすっかり乾いていた。



抗がん剤治療をしているのと、大量ステロイド投与による肺炎などの感染予防、また、インフルエンザの季節柄、しばらくは自宅へ先生が来てくれる個別指導となるが、放射線治療の効果が表れ、ステロイドの量が減り、症状が安定して来たら、通学を始める方向で、トントン拍子に話しが進んで行った。



登校時間と私の出勤時間が重なり、通学はスクールバスを利用する事になりそうだった。
この変わり果てた姿で、バス停まで車椅子で行かなければならなかった。小学生の登校班の見守りのお母さん方が集まっておしゃべりをしているかもしれない時間帯。



知り合いや近所の人達の好奇の目に曝されそうで、私には耐え難い事だったけれど、Kは何とも思っていないようだった。この状態は治療の通過点に過ぎない、必ず元どおりの健康な体に戻れると信じて疑わなかったのだと思う。Kはとことん前向きだった。Kの屈託のない真っ直ぐな心が、私のくだらないプライドで汚されないように、私はもっともっと強くならなければならなかったのに。



Kはそれから間も無く放射線治療を終え、退院した。夢にまで見た退院。こんなに不自由になってしまった体でこの日を迎えるなんて。
病が発覚した時は、まさかこんなに辛い現実が待ち受けているとは想像もしなかった。



声を殺して泣いた病院の廊下。外のベンチ。いつも混んでいて停める場所が無く並んで待たされた駐車場。「ママ、まだ?いま、どこ?」と携帯にKから電話がきて「今もう駐車場だよ!もうすぐだから待っててね!」と凄く焦りつつ並んで待っていた。絶望のどん底で二人で見つめた美しい夕日。Kの乗る車椅子を静かに押しながら、絶望を悟られないように無理して明るく振舞って散歩した病院の庭。



ここでの悪夢のような日々を振り返りながら、更なる悪夢と立ち向かわなければならない現実。激流に抗えず、どんどん流されて飲み込まれてしまいそうな恐怖心と絶えず戦っていた。
「誰かKを助けて!」心の中でずっとずっと叫んでいた。