20250302

2月末から来ている免許合宿も、明日日曜日は自動車学校がお休みということで、待ちに待ったオフである。毎日9時から20時まで教習所にいる生活は、思った以上に体に疲れを蓄積させる。半分以上の時間は、学科や教習もしてないというのに。なぜだろうか。明日はやっと休日だとは頭では思いつつも、体がくたびれている土曜夜では、休日の計画を立てるための気力なんて醸成されやしない。しかしながら、毎日寝泊まりするために僕たちに与えられた宿に一日中いるわけにもいかない。あるいは、実家の愛知からも東京からも遠く離れたこの福井の地で、二週間をも過ごす中での貴重な休日である。15日間教習所だけに行ってましたでは味気ない。何より宿で一日潰すなんて勿体無い。するかしないか迷ったら楽しい方さ、いつも。そんなことを思いながら土曜日の深い水底のような眠りについた。

日曜朝はタイマーをかけずに何気なく目覚める。ぼんやりと東尋坊が地理的に近いことは知っていたので、その行き方を調べてみる。教習所に来ている身なので、当然車移動はできない。えちぜん鉄道とバスを乗り継いで、案外手軽に行けるようだ。宿から駅は徒歩で数分のところにある。勿論ローカル線なので、本数は少ないけれど。その気になれば、しっかり計画して動く性なので、電車やバスの時刻表とにらめっこし、どの時間の便を選択すればいいか、どれくらい東尋坊に滞在できるかに考えを巡らせた。30分?いや短いか、1時間くらい…?スマホの経路検索アプリは便利すぎる。調べて計画する不便さを愛したい。調べる中でえちぜん鉄道の主要駅では、レンタサイクルが安く使えるサービスがあることがわかった。

ここまでの情報をもとに、電車で行けるところまで行き、そこからレンタサイクルで東尋坊に向かうという方向性が頭の中で定まった。バスで東尋坊まで行くより、借り自転車の方が安い。あるいは、風光明媚な景観であろうと期待される海岸に沿って、自転車で進んでいくのは僕が求めていることである。

一日フリー切符を使って、あわら湯の町駅から三国駅まで乗る。1200円は高いが、復路で福井駅まで行ってしまえば、普通運賃で乗車するよりもかなりお得だ。一両編成のワンマンカーが思いの外堂々とした姿でホームに入ってくる、ちょうど乗車駅であるあわら湯の町駅で列車交換をするようだ。単線のローカル線で、線路の状態は悪く、心地の悪い横揺れも少なくない。それに、列車の薄汚れた窓やリクライニングなどない垂直な背もたれのボックスシートという仕様である。しかしそれらが列車旅の味わいを生み出しているに違いない。

電車こそ心許ないが、特別にデザインされた車掌服を身に纏った女性アテンダントが、えちぜん鉄道の一部に列車には乗務員として添乗しているようだ。えちぜん鉄道が独自に行っている試みで、通常の車掌業務に加え、車内での運賃精算や観光の案内などもこなす。凡庸な車掌業務だけに留まらないこの仕事は、ナイスアイデアだと思う。

思いの外すぐ三国駅についた。三国駅は坂井市の三国エリアの中では主要駅に位置付けられるようで、近年になって改築された新しい駅舎で、それなりの乗降客がいた。フリー切符を駅員に見せて、レンタサイクルを使いたいという旨を伝えたが、天気の都合でやってないとのこと。いきなり、予定が狂ってしまったと思ったが、すぐさまバスで東尋坊を目指すことにした。電車とバスの接続時間はあまり連携されてはいないようで、駅前のバス停ですることもなくただ待っていた。歩道からやや低い位置にある簡易的な待合所の片隅には、誰かが捨てていった、あるいは風で運ばれここに行き着いた、スナック菓子の袋のゴミが溜まっている。いずれにしろ、食べた本人がゴミを捨てれば起きないことではあるが。

やってきた空っぽのバスに乗ると、乗客は自分だけで東尋坊までそうだった。しばらくして海沿いに出ると、山がちになり、カーブが多くなり、道は狭くなった。東尋坊のバス停に向かう途中までにある、夕陽を望めるであろうエリアには、別荘のような家々が並んでいる。程なくして東尋坊のバス停についた。バス停は、お土産屋の目の前にあり、僕が降りるとすぐにお土産屋の者が有無を言わさず割引券を渡してくる。自分はそれに何を思えばいいのだろうか?こういう他者の予想だにしない行動に、僕は一瞬だけだが戸惑ってしまう傾向があると思う。商品を買ってもらうことに必死なのか、あるいはオフシーズンで儲けが良くないための苦肉の策なのか、東尋坊までの商店の中では立地が悪く、客の集まりが悪いのか、そんな考えを良くも悪くもめぐらせてしまう。大抵、こういう割引券は貰いこそして、財布の脇にしまっておくが、後になって使うことはまずない。なぜだろうか。東京で行く飲食店でもらう割引券やチラシについたサービス券もそうだ。

商店が左右に並ぶ通りを進む。冬でオフシーズンではあったが、それなりに観光客の姿もあり、多くの店が営業しているようだ。海鮮やソフトクリームのお店が多く軒を連ねる。時間は11時前で、寄るとしても東尋坊を一回り見てからと決めている。通りの雰囲気自体は好きだが、どうも気軽に入る気にはなれない。魅力的な店がないというより、観光地で食べるご飯やお土産に、僕はいいイメージがない。それがなぜだかをうまく言葉にして説明することもできないのだけれど。

通りの左右が開けると、東尋坊の岩崖が視界に飛び込んでくる。3つほど大きく海に突き出した岩塊は、基本的にどこまでも入っていっていいようだ。風が吹いて、白波が起きる。岩にぶつかった波が白い泡になる。同じ波はないが、同じその繰り返しだ。水平線に対して斜めに隆起した岩の何層もの重なりが目に飛び込んでくる。小雨混じりの曇天なのが惜しいが、それこそどこか荒涼で殺伐とした冬の東尋坊が見せる本来の姿の一つなのだろう。

ゴツゴツした岩の面を見て、次に足を置く位置を見定て、一つ一つ足早に進んでいく。どうやら登りより下の方が恐怖感があるようだ。岩の先端まで来れば、多くの人たちが写真をかわるがわる撮っている。カップルで来ている二人や大学生のグループ、小さな子を連れた家族の姿などが目に映る。中でも、いちばん険しい部分に2、3歳くらいの息子を抱えて登っていくお父さんの姿を覚えている。どうやら、「ママは下で待ってて」と言って、父は子を肩車してその岩に進んでいく。滑って転んだり、バランスを崩したりしたら、大怪我につながりかねない。僕の先にその岩の先端まで行った二人は、父が息子を肩車して、どうだと言わんばかりに広大な海を見せている。僕は二人に声をかけ、写真を撮影したいという思いが湧き上がった、正確には、むしろ自分がその微笑ましい光景を形として残したいと思ったのだ。自分が見るためでなく、その家族の思い出の証として残すべき光景だと直感したのだ。お母さんを残してまで、息子を肩に乗せ岩先までよじ登っていく父は、大切な何かを息子に伝えているに違いない。冒険心か好奇心か。言葉にするなど野暮かもしれないが、その行動が示している思いは僕らが忘れたくない何かである。撮影の際に、それまで目の前に広がる海を眺めていた二人は、僕の提案に応じて僕の方に向きを変える。肩の上の子もにやりと屈託のない笑顔を見せた。それは、父からのメッセージを無言のうちに受け取ったともいうべき表情だった。二人とも怖いもの知らずだと感心すると同時に、そんな父子の姿を岩下で待つお母さんも見るべきだったと思った。その親子の中で生まれるべき幸せを、自分がほんの少しでも演出できるなら、そんな思いだった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。