手放す事と排除する事の違い
オラはよく「ネガティブを手放す」とか「執着を手放す」などと書いていますが、手放す事と排除する事は違います。
これはスピリチュアル系で勘違いされやすい表現ですが、「自分はネガティブだからダメだ」という自己否定に陥りやすいかもしれません。
手放すとは、二元性を一度統合吸収して、引き寄せの法則を活かすという事です。
つまり、自分の中の善悪を受け入れ価値観を統合し、悪と言われている事を選択しなくなるという事です。
自分の心や感情を抑える事なく、コントロールできる状態です。
悪を正すという『正義』の心が無ければ、怒りに囚われる事なく冷静な判断ができます。
特に『正義』という攻撃的感情は、使わずにはいられないものです。
『正義』に怒りが混ざれば、自分の事を棚にあげても相手が非を認めるまで、攻撃したくなるものです。
『善』や『正義』とは二極化の価値観の象徴のような概念です。
争いや戦争は『正義』と『正義』のぶつかり合いですから。
「戦争反対!」と非難している事も、二極化という分離を生み出し、平和から離れていく事になります。
真に戦争を無くしたいなら、1人1人が非難する心を手放して行かねばいけません。
まずは、自分の心や生活を平和にしなければ、
平和や平等や愛を訴えても偽善にしかなりません。
自分の中の二極化した価値観を統合していなければ、愛を語りかけても不調和を生み出す事になります。
闇を排除しようとして、光を強くしても闇は濃くなるばかりです。
一方的な視点から物事を判断している限り、
光は一方向からしかあたりません。
闇を無くすには、多角的な視点から多角的光を当てれば良いのです。
多角的な視点から見ると、何事も善悪の価値観では測りきれなくなります。
闇を見たくないのならば、自らが太陽の如く全方位に光を放てば良いのです。
すると自分からは闇は見えなくなります。
闇が見えるという事は、自分から光を放ってはいないという事です。
闇さえも包んでしまう愛を慈悲(慈愛)と呼びます。
それは自分の全てを許す愛です。
そして他者をも許す愛にもなります。
今までの文明は全てを善悪に分離してきました。
これからの文明は善悪を統合していく方向で進みます。
その統合が自然災害を止める方法であり、
アセンションする近道になります。
これはスピリチュアル系で勘違いされやすい表現ですが、「自分はネガティブだからダメだ」という自己否定に陥りやすいかもしれません。
手放すとは、二元性を一度統合吸収して、引き寄せの法則を活かすという事です。
つまり、自分の中の善悪を受け入れ価値観を統合し、悪と言われている事を選択しなくなるという事です。
自分の心や感情を抑える事なく、コントロールできる状態です。
悪を正すという『正義』の心が無ければ、怒りに囚われる事なく冷静な判断ができます。
特に『正義』という攻撃的感情は、使わずにはいられないものです。
『正義』に怒りが混ざれば、自分の事を棚にあげても相手が非を認めるまで、攻撃したくなるものです。
『善』や『正義』とは二極化の価値観の象徴のような概念です。
争いや戦争は『正義』と『正義』のぶつかり合いですから。
「戦争反対!」と非難している事も、二極化という分離を生み出し、平和から離れていく事になります。
真に戦争を無くしたいなら、1人1人が非難する心を手放して行かねばいけません。
まずは、自分の心や生活を平和にしなければ、
平和や平等や愛を訴えても偽善にしかなりません。
自分の中の二極化した価値観を統合していなければ、愛を語りかけても不調和を生み出す事になります。
闇を排除しようとして、光を強くしても闇は濃くなるばかりです。
一方的な視点から物事を判断している限り、
光は一方向からしかあたりません。
闇を無くすには、多角的な視点から多角的光を当てれば良いのです。
多角的な視点から見ると、何事も善悪の価値観では測りきれなくなります。
闇を見たくないのならば、自らが太陽の如く全方位に光を放てば良いのです。
すると自分からは闇は見えなくなります。
闇が見えるという事は、自分から光を放ってはいないという事です。
闇さえも包んでしまう愛を慈悲(慈愛)と呼びます。
それは自分の全てを許す愛です。
そして他者をも許す愛にもなります。
今までの文明は全てを善悪に分離してきました。
これからの文明は善悪を統合していく方向で進みます。
その統合が自然災害を止める方法であり、
アセンションする近道になります。