夏本番…辛い | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

Donko1 ←  セルバンテス (作)『ドン・キホーテ 後篇1 』(牛島 信明 (訳) 岩波文庫)「後篇では,ドン・キホーテの狂気は大きく様変りする.ここでは,もはや彼は自らの狂気に欺かれることはない.(中略)ここにいるのは,自らの妄想にではなく,とりまく者たちに欺かれるドン・キホーテ,現実との相克に悩み思索する,懐疑的なドン・キホーテである」

 

 夏。庭仕事には、蚊などの襲来。暑いけど、長袖、ズボン、長靴、手袋、鍔のある帽子(お袋の遺品)、マスク、首には手拭い。完全防御である。ゴーグルもしたいが、数分で曇るので断念。冬でも30分で汗が滲む。夏場はなおのこと。草むしりが大半。我輩は除草剤は使わない(入浴でもシャンプーや入浴剤は使わない。食器洗いでも洗剤は不使用、たまに石鹸)。なので雑草は伸び放題。雑草などとの闘いは晩秋まで続く。(07/16 22:09)

 

 セルバンテス 作の『ドン・キホーテ 後篇1 』を昨日(17日)未明読了した。
 意図的なのか後篇になって物語の……あるいはドン・キホーテらの性格……もっと言うと描き方が変質した気がする。ドン・キホーテの狂気ぶりが先鋭化してる。類い稀な記憶力と(独特な)知性に磨きがかかり、一方 尋常じゃない狂気……疑うことを知らない思い込みの頑なさとの両立 それとも緊張感ビンビンの屹立が物語の面白さを際立たせている。正気とは何か、何があなたの正気を保証するのか、社会の認知以外に正気は正気足りえない。箍を外してはいけない。
 物語するということ、特に(ユーモラスに描いてるとは言え)狂気の人を描くということは、往還を常に作家は自らに保証しておかないとならない。リアルに描くほどに禁断の領域に踏み入る可能性が増す。が、瀬戸際にジリジリ踏み込まずに納得の行く狂気の物語は描けない。ドン・キホーテもだが、セルバンテスも行き着くところまで行くしかない。読み手たる我輩は、高みの見物を楽しむばかりだ。
 正気と狂気は、メビウスの環を巡る。表裏一体……

 早速、後篇2へ。

 

 何年か前(2015/09/15か)、図書館本で読んだロベルト ボラーニョ作の『2666』に寄せた感想を今日、ピンチョンの『重力の虹』の読了に際し、一部更新した:
  

「第二次世界大戦を含むおよそ一世紀にわたる悪と暴力の歴史を織り込みながら、今なお続くメキシコ北部での女性連続殺人事件というアクチュアルな問題をあぶり出す」というもの。すごい作品だった。中南米文学の代表作だろう。生前に公刊されていたら、ノーベル賞に値する。でも、真価を本当につかむには、再読が必要。ピンチョン(重力の二次的)やマルケス(百年の孤独)、莫言(豊乳肥臀)、レム(完全な真空)さらにはアジェンデ(精霊たちの家)など、文学表現に限界はないだろうことは感じてしまう。

 ピンチョンの『重力の虹』の読了前日(2021/07/16)の呟き:
 

古書店の棚で上下巻セットでドーンと。その圧力に、これは買うしかないと。難解って噂で迷った……が、迷う前に手が出ていた。若い頃なら体力と意地で一気読みしたろうが(後日の再読もあろうかと)、今の我輩にそんな悠長な余裕はない。日に30ずつ敢えて1ヶ月以上を費やしてきた。凄い作品だ。感想は(書けるとして)後日。近い将来、他の作品も読む。ノーベル賞が未だって不思議。猥雑過ぎるから?