住み処を終われ | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 

Error_20191104204501 ← アントニオ・R.ダマシオ 著『デカルトの誤り ─情動、理性、人間の脳』 ( 田中 三彦 翻訳  ちくま学芸文庫) 「日常生活の折々の場面で求められる合理的な意思決定には、そのときの身体状態と不可分に結びついている情動と感情の作用が不可欠であることを明らかにした(「ソマティック・マーカー仮説」)」。

 

 アントニオ・R.ダマシオ 著『デカルトの誤り ─情動、理性、人間の脳』 を一昨日、読了した。

 題名のデカルトの誤りは、デカルトの心身問題への根底的な疑問を意味する。心…精神と身体は別個の実体と腑分けするデカルト。西欧の科学は、ある意味この腑分けから始まるともいえる。心の問題は後回しにする。科学の対象に馴染みやすいものに研究の力を注ぐ。脳科学や心理学ですら。理性は人間特有のものであり、一方、感情や情念は下位のものと眼中に入れない。


 感情には身体の状態が左右しているのではという直感はあっても、科学研究の現場からはそういう雑音は度外視する。

 が、近年の研究で身体に由来する情動という観点が脚光を浴びてきた。それどころか、欧米における人間観では特別視された理性すら身体由来の働きが左右しているのではという見方が示されつつある。
 そもそも脳は、脳神経だけの塊ではない。神経細胞の複雑で高次の機能は否定できないとしても、今までは謎でただの溶液扱いだったグリア細胞の機能も徐々に分かってきた。さらに、近年、人間の身体は、人体を構成する30数兆の細胞ばかりで成っているのではなく、共生(寄生)する、その数倍から十倍とも云われる細菌の存在と併せて成っていると考えられてきた。


 つまり、内臓や皮膚だけでなく、棲みついている細菌も人間の生存どころか、感情を左右している可能性が指摘されているのだ(むしろ、30数億年の歳月を生き延びてきた細菌の海の中に、たまたま我が人類が浮かび寄生していると、コペルニクス的転回が必要だと私は思う)。
 本書では、人体に共生する細菌までは視野に入っていない。本書が書かれた時点より、研究が広まっているとも云えそうだ。
 それでも、身体が人間の直観的感情に影響しているという指摘、ソマティック・マーカー仮説そのものは古びたわけではない。
 やや難解だが一読の価値は今もある。

 

 身の丈発言。英語の大学入試試験だけじゃないよね。私立校(の一部?)では高校や中学(あるいは小学校や幼稚園)の段階で既に、大概の公立校とは雲泥の差の教育環境下にある。塾や家庭教師。その前に親にカネがある。書斎にも居間にも本がありふれ、日常の話題からして、クラシックだったりアートだったり。交流する群像も違う。何か問題を起こしても有能な(高額の報酬を求める)弁護士が解決してくれる。苛めしほうだい。だって、学校も有力者の師弟は大事にするよね。揉み消しは得意だよね。教育委員会は有力者の味方だよね。


 KOの学生が不祥事起こしても不起訴は確実。政権の仲間なら不祥事は揉み消してくれる。明治維新の理想は、風前の灯。機会均等。教育は義務。この義務は国民への義務であり、国家の義務のはず。国は断固、不平等を廃さないとならない。人材は何処に埋もれているか、誰にも分からない。だから誰にも同じチャンスを与えないと。国にも国民にも危機感が足りないんじゃないのかな。衰退する日本に誰がしたんだ?

 

 昨日ラジオで(夏休みには折々聴いていたが、連休だからか)子供質問箱(記憶が曖昧)なる番組を聞き齧った。中で、台風の際、鳥たちはどうやって過ごしているんですか、という質問があった。この疑問は我輩も風雨を茶の間の窓外に眺める度に浮かんでくる。風雨の襲来し出した時点では、鳥たちは三々五々何処から何処へと慌ただしく飛んでいくのを見掛ける、が、風雨が辺りを完全に支配する頃には全く姿を見ることはない。鳥類の専門の先生の答えは、意外なようでいて(考えるまでもなく)当然のものだった。


 答はよく分かっていない、だったのだ。何故なら、台風など強風下では研究者らも危険で調査観察が難しい、と。成る程、納得。ん? 納得していいのか? 研究者なら工夫して調べろよって、我輩は思う。これはと見当着けた辺りに車を駐車させ、車中から観察する。あるいは小屋を建てておくとか。研究者ならそれくらいの根気と工夫は当たり前にやるものではないか。


 鳥たちは強風下では、どうやり過ごすのか……。先生はよく分かっていないという。いわゆる巣も、あくまで子育ての際に作るものだと云う。我輩、そういえば、そもそも普段(台風など厳しい時じゃない)は、鳥たちは何処で夜を明かしているのか自体を知らない。風雨さえなければ、巣?


 先生の答えでさもありなんと思ったのは、台風の際、海鳥たちの姿を陸上で見掛けることがあるという知見。海上では風を避けようがないのだろう。が、では、海上から避難してきた海鳥たちは、いったい何処へ逃げていくのか? その答えは先生にはなかったのは云うまでもない。つまりは、冒頭の疑問、振り出しに戻るわけである。


 我輩、普段からして鳥たちはどうやって夜を過ごしているのか、分かっていないことに気付かされました。
 何でもない気候の時は、枝葉などの茂みに身を潜めてるのかなって。猫などの天敵もいるだろうし。強風の時ですね、気になるのは。そう、猫も強風下降り頻る窓外を眺めつつ、どうやってるのかきになってます。飼い猫はいいけど、野良猫は疑問。以前、我が家の軒下に野良猫(?)が子猫を産んでいったと近所の方に聴いた。子供の頃は見かけたけど、今はどこの空の下にいるのやら。野鳥や野良猫は、気になります。

 

82364 ← 桜井進 /坂口博樹 著 『音楽と数学の交差』(大月書店)「音楽と数学の関係を、音響理論等の単純な裏付けとして考えるのではなく、宇宙や無限、生きるということに関わらせて捉え直す」

 

 桜井進 /坂口博樹 著 の『音楽と数学の交差』を昨日から車中で読み始めた。数年前に読んだが、再読する。トイレからの戻り、書庫に通り掛かったら目についた。車中の友に。
 音は数の表れ。音楽は身体化された数。深く楽しき洞察。音楽が決して音学でないように、数学が数楽であったら、世界が違って見えるに違いない。音楽のセンスもある数学者は、世界はどんな風に見えているのだろう。


 個々の人間にとっての音やリズムの原体験は何だろう? 風の囁き? 母の心臓の鼓動? 子宮のざわめき?


 軽めの本かと思いきや、なかなかレベルが高い。車中で読むのはやめておくかと迷っている。

 ラジオで、ホテルの部屋から出られないって話を聞いたら、ふと、あることを思い出した。10数年前、部屋の鍵を無くし(落とし)たことに、帰宅して気付いたことがあった。合鍵は部屋の中。夜。管理人はいない。近所に友達はいない。携帯のない時代。我輩の部屋は2階。ふと、ベランダ側のドアは施錠していなかったはずと。集合住宅の庭(ベランダ)側へ回り、雨樋をよじ登った。まだ、若かったから登れた。ホッと一息。だけど、翌朝、仕事に行くのに、施錠、どうする? 自分は当事、あとどうやったか覚えていない。集合住宅の二階は、我輩でもベランダ側から登れる。用心用心。


 登っている最中も、やばいって感じてました。必死だったんです。まずいことで、弁解の余地がないです。
 見つかっていたら、通報され、前科者になり、住み処を終われ……全く別の今より悲惨な人生を送っていたかも。