真冬の夕方、街道沿いの道を歩いた。年末の慌ただしい頃合いで、仕事なのか家路を急ぐのか、車のヘッドライトの放列が延々と続いている。
← コンピュータの中に入りこんでいた「虫」の、おそらく最初の写真。 (画像は、「バグ - Wikipedia 」より)
その脇を足早に歩く。急いでいるから、というより、寒くてその気もなくても歩みがせっかちになる。
手は懐に、ゆったりのんびりというわけにはいかない。ジャケットのジッパーを止めればいいのに、それも面倒で、次第に外気の冷たさにお腹が冷えてくる。
用事を済ませて、さっさと帰りたい。
多くの人は夕方というと、仕事を終えて帰宅の途につく。人とは違う生活パターンを送る自分は、夕方のラッシュとは無縁。渋滞にイライラして…なんてことはない。
そもそも普通の生活を送る人たちとも無縁なのかもしれない。
社会の底辺とは云わないまでも、全くの裏方仕事を淡々とこなしている。
人の生活のリズムとはほとんど噛み合わないので、自然、一人の時を過ごすことが多い。
それとも、それが望ましくてこんな仕事を選んだような気もする。
いや、思い返してみると、そうだったのだ。
けれど、社会はそんな孤立した生活を許さない。
← モーリス・ブランショ 著『謎のトマ 』(篠沢秀夫 訳 中央公論新社) 「ヌーヴォ・ロマンの先駆けとなった幻の鮮烈デビュー作の初版(1941)を初邦訳」だとか。昨日未明、読了。刺激が強くて、その影響でこの頃の日記も変調気味に!
車にはGPS装置があって、常時、居場所を特定されている。常にどこにいるか把握されている。
東京在住時代は、東京の各地を走り回り、疲れたら、あるいは疲れていなくても、気に入った風景や風物を見つけたら、何処かの公園の脇に車を止め、暫しの和みの時を持った。持てたのである。
デジカメを持参し、夜の東京の風景を撮った。若葉の頃の東京、盛夏の東京、晩秋の枯れ葉舞う東京。
路上に吹き寄せられた桜の花びら、それとも舞い落ちた葉っぱの行く末を眺め撮った。
あるいは大都会東京の片隅、人影のない夜の公園の隅っこで、枝葉越しに月影を眺め上げた。
東京だからこその意外な孤独感を堪能した。
今はそんなことは不可能になっている。公園の脇でのんびりしようものなら、無線でビービーと呼ばれる。呼び出され返事を求められる。そんなところで何、油売っていると叱られる。
私は空を飛び回る自由な鳥、それとも大海を漂うヨット、旅から旅を行く気ままなドライブの車…なんかじゃなく、純白の事務所に紛れ込んだ虫、画面上の汚点。座標上の軌道を追われる存在の無。爪楊枝、それともペン先で突っつかれるバグ
。
← プルースト【作】『失われた時を求めて〈6〉ゲルマントのほう〈2〉 』(吉川 一義【訳】 岩波文庫) 吉川訳『失われた時を求めて』の最新刊。今日から読み始めた。第五巻は誤植(校正ミス)が多かった。今度は、そんなことのないことを祈る。
孤立などありえないのだ。常に追跡と操作の対象なのである。
では、孤独はありえないのだろうか。
孤独だけは、最後の砦なんじゃなかろうか。
でも一体、どうやって確保したらいいのか。
なんて、もうとっくに十分すぎるほど、どつぼ
に嵌っているよね ? !