それが以前は、何の苦労もなくスラスラと読み進めることができたのだ。読むのを中断するとしたら、用事があるか、でなければ、単に面白くないからに過ぎない。
が、幸か不幸か、時代が癒しの時代というのか、人に優しいを謳い文句にする時代に小生の視力の悪化という事態がピッタリ合わさっていた。
それゆえ、例えば新聞にしても近年、活字が大きく見やすくなった。こんなことなど、ちょっと前の自分なら余計なお世話だったろう。
← 黄色い水仙も、雨滴にしっとりと潤っている。生憎の雨の中、今日、富山には桜の開花宣言が出された 。昨日七日は、松川縁の桜並木で、一部の木が三分咲きだったのだった。
文庫本にしても、岩波文庫も、無論、新しく登場したブランドの文庫シリーズはいずれも、活字が大きい。一頁辺りの活字の数も少ない。
これは、必ずしも人に優しいという理念ではなくて、活字離れ、読書離れ、つまりは本離れという、特に若い人に見られる傾向に対応する結果なのかもしれない。
ただ、たまたま小生にとっては、老眼の度の進行に合わせるかのように社会の動きも平行して変化していたというのに過ぎない(のだろう)。
そうそう、数年前からは、ソニーから出た電子辞書のお世話になっている。広辞苑や英和辞典などを収めた電子ブックと、一昨年にはNIPPONICAを収めたカラーの電子ブックを更に購入した。
もともと活字が液晶の画面では単行本の活字より大きいのだが、場合によっては「活字拡大」の機能を使うことで、新聞の見出しくらいの大きさにだってすることができる。漢字の細かな部分を確認するには絶好である。
しかも、広辞苑にしてもNIPPONICAにしても、書籍の形なら場所を取って困るが、電子ブックは大き目の文庫本サイズなのだ。中のソフトも入れ替えることだってできる。
但し、小生は、デジタル派ではない。本にしても従来型の本が好きだ。電子ブックは好まない。辞書だって本だって、実際に手にとって、頁をペラペラと捲りたいのである。殊更に手垢を付けるわけではないが、結果として手垢に塗れるなら、それも良しというのが小生の好みなのだ。
→ 濃いピンクと淡いピンクの山茶花の間に小さな梅の木。移植して初めての雨天。今日は、水を遣らなくて済む。ブロック塀の向こうは、隣家。
何年も蔵書された本が、経年により劣化していく。
折り目のついた頁もあれば、栞を挟んだ頁もある、書き込みされた頁もあれば、何か大事なものを挟み込んだ頁だってあるかもしれない。埃を被り、部屋の中に堆積して、置き場に困るなどと呟きながらも、やっぱり紙の本を愛惜しているのである。
ああ、これらの本も目の遠くなった小生にとっては、書棚の肥やしと化していくのか。
しかし、現実に進行する肉体の老化の事態には敵わないのである。便利なものは、割り切って使えばいいのだ。
このようにたまたま技術の進歩と時代のニーズとが、小生の目の弱体化の現実を糊塗することに預かっていたのだ。僥倖というべきか、皮肉なのか、現実の事態の先延ばしに過ぎなかったのか。
当然、就寝前、部屋の明かりは消して、寝床で枕元に電気スタンドを置いて、そのスタンドの明かりだけで本を読むというのは、辛い。昔は(といっても、ほんの数年前までは)面白ければ数十頁だって、あるいは止めどなく読めたのが、今は、活字の大きな本を選んでいるにも関わらず、十頁も読むことができない。すぐ、本を手放して、瞑目してしまう。
もう、いいや、寝てしまおう、ということになる。
← 隣家の白木蓮が、今日になって一気に開花した。今朝は、ジャンプする人が一旦、屈み込み、瞬発力のエネルギーを溜めるように、蕾が今にも開花しそうに、プルプルしていたっけ。
部屋の明かりをちゃんと点け、手元に蛍光灯を置き、それでも足りないと本を灯りに近づけ、あるいは、小生と本との距離を調節する。
そうやって苦労してでも本を読む。読書が好きなのだ。他に何もすることがない。駄文を綴ることをたまに試みるくらいだ。
その読書が難行苦行になっているだなんて。



