月影について、満月について、今まであれこれと綴ってきた。
今月に限っても、「月影のワルツ?
」では、(ほぼ)満月の真夜中の月影の清冽なまでの明るさ、物の影の輪郭の鮮やかさをメモったし、「「ムーンシャイン」は妖しい言葉
」では、「ムーンライト」とはまるで違う意味を持つ、「ムーンシャイン」について語り、「「月影に寄せて」の頃のこと
」では、改めて「月影」という言葉の意味を探ってみた。
← 南天の真っ赤な実。背後には熟したミカン。いずれも水も滴るいい果実!
今日もまた、月についての話題である。
…と書きながらも、実はもしかして勘違いしているのかもしれない、月に因する話ではないかも、という一抹の不安もある。
富山は北陸特有の冬の陰鬱な曇天の空模様がもう、始まったかのような天気の日が続いている。
毎日、曇りで雨マークがない日は数えるほどである。
そんな中でのバイクを使っての配達仕事をこなしている。
丑三つ時過ぎに家を出て、三時前から仕事を始め、日によって(天候によって、あるいは新聞の折込広告の分量によって)随分と配達に要する時間は違うのだが、遅くとも五時半には配達を終え、帰宅は五時半から六時前後といったところか。
いずれにしても、今の時期、帰宅しても真暗である。
車のラジオで、そろそろ日の出の時間です、なんて放送を聴きながらの帰宅の途なのである。
真夜中過ぎだから暗いのは当たり前。
だけれど、そんな真っ暗闇の中の活動を日々、こなしていると、だからこそ、微妙な闇の深さの違いや変幻に敏感になる。
ちょっとした闇の濃さの違いが、よそ様の家の中を踏み分けていくに際し、小走りになったり、それこそ泥棒でもするかのように、抜き足差し足忍び足になったり、足どりの様相を随分と左右する。
さて、まず、満月の夜の明るさ(暗さ)と、新月(…つまり、月影の皆無な月齢時)の、だけど晴れ渡っていて星が満天を埋め尽くしている夜の明るさ(暗さ)とでは、どっちがどうだろう。
これは、文句なく満月の夜の明るさに軍配が上がる。
夜明け前の空気が一番、澄んでいる時間帯ということもあって、郊外とはいえ、市内の平野部でも、月のない夜空に鏤められた星々の煌きたるや、時に凄みを感じさせてくれる。
魂が震撼させられる、なんて大仰な呟きを胸中で発したりする。
それでも、明るさという一点に絞ると、満月の夜の清澄さは徒(ただ)ならぬものがある。
ところで、不思議な夜を経験することが間々、ある。
表題にも書いたが、真夜中、雲に覆われた月の明るさを感じることがあるのだ。
時間帯は、例によって夜中の三時とか四時とか五時とか、である。
空は曇天。
雨上がりだったり、今にも泣き出しそうな、晴れ間などありえようもない曇天の空。
当然、月影など、皆無である。
月が夜空のどの辺りにあるかを窺う術もない。
薄い雲だったり、ほんの僅かでも雲の切れ目があって、偶然であれ、一瞬でもそこから半月や三日月の影が垣間見られる、なんて期待できない雲の厚さ、広がりなのである。
なのに、妙に空が明るい。
晴れ渡った夜の満月の月影には、さすがに敵わないし、地上のモノの影の輪郭だって、鮮やかとはいいかねる。
だけれど、足元が危うい、なんてことはない。
よほど、家の中の植木や壁(塀)が立派だとか、駐車場の屋根が門前から玄関まで覆っている、なんてことでもないかぎり、懐中電灯で足元を照らさないと歩けない、なんてことはない。
曇天なのに、世の中全体が妙にボーと明るいのである。
曇天の真夜中の玄妙な白々しさという恵みを戴きながら、地上世界を這い回りつつ、不可思議を愛でる。
月齢からして、月は、三日月と呼ぶのも気兼ねするような薄さ。
だから、分厚い雲を透かして月の光が地上世界に漏れ漂う、なんてこともありえそうにない。
いや、そうではなく、月影が雲の上で乱反射して、雲をそれこそ、祭りの夜の灯明に照らし出される綿菓子のように、妖しく懐かしげに光らせている、とも考えられる。
雲の中に月の光が満ち満ちて、その光が溢れ出して地上世界を優しげに照らしてくれていると考えられなくもない。
→ 雨の中、内庭の木々を暫し眺める。忙中閑あり、か。
一方、低く垂れ込める満天の雲に、地上世界の町の明かりが反射している、月の光じゃなく、町の灯が雲を鏡として、地上世界に翻(ひるがえ)ってきている、という考え方もありえる。
しかし、これも、夕方の都会や市街地だったら分かるが、小生が駆け回っているのは夜中の三時過ぎ、四時過ぎのことなのだ。
その辺りの真相を確かめる能は、小生にはない。
きっと、平明な説明があるのだろう。
正解は識者に任せるとして、小生は、曇天の夜の不可思議な明るさを感じ愛でるだけである。
(09/11/21 作)

