京都国立博物館裏手から路地に入っていく

ここの先に目的地はある


普通の路地で、まっすぐ行ったら

行止りだった( ̄▽ ̄)

ちょいともどって回り道

そして、目的地に到着



大仏殿跡地緑地

かつて、ここに

奈良東大寺の大仏より大きなものを作ろうと

この地にたてたのである

いまは、跡地

大仏殿を想像することすらできないくらい

普通の住宅地の中にある



説明看板は写メしたが

周りを撮るの忘れた

とりあえず、ここが大仏殿だったという痕跡は

説明看板がここに建ってたという語りだけ

当時のものは、発掘されたが

埋め戻され、地中保存

当時のものはないけど

ここに、大仏様が鎮座していたわけである

感慨深いが、想像力が働かない

今回は珍しい


大仏殿跡地から
 
裏から方広寺境内へ

こちらは、有名な鐘

大阪の陣を招いた鐘である

すでに、秀吉はこの世にはおらず

すべてを徳川の許しを得ないとできない

時代に変わっていた

方広寺も、新たな大仏が作られた

梵鐘もできて、開眼供養を待つだけとなった


ここで徳川は梵鐘に書かれてる銘文にケチをつけた

それが

「国家安康」

「君臣豊楽」

である

要するに、徳川は豊臣を潰したかった

それに、尽きるわけで

秀吉の墓をも崩壊するくらいだし

これだけみると、冷酷な奴だと思いたくなる話である



ほんと、立派な梵鐘である

いまは、きちんと吊られているが

明治の写真には地べたに置かれている状態が

写っている


現在は東大寺、知恩院の鐘楼とももに

日本三大名鐘のひとつで重要文化財である

そして、問題の場所は右上の白くなってるところが

問題の銘文である



国家安康で、家康の名前を切り離し

君臣豊楽で、豊臣は繋がってる

とケチをつけたわけである

その昔来た時、たまたま下から見上げる機会が

あった

もし、落ちて来たら…といらんことを思ったこと

思い出した( ̄▽ ̄)

その時だったか?、説明してくれた話では

当初から仕組まれたという説も捨てがたい

銘文を考えた僧は徳川に取り込まれていた

みたいな、話だった

うーーん

もっと、ちゃんと聞いておけばよかったと

今更後悔するところである



方広寺、拝観希望で行ってみたら


がーーーんガーン

休止でした


もう一度、鐘楼一周して

となりの豊国神社へ


ここは、大仏殿の跡地に建てられた豊国神社

明治天皇が再興した

唐門は南禅寺金地院から移築

その前は、二条にあり更に前には

伏見城にあったと伝えられる

秀吉の居城だった伏見城からのものなら

祀られる秀吉も喜んでいることだろう


ちなみに、この豊国神社には

昭和48年3月まで大仏殿と大仏が存在していた

天保年間に愛知の有志が

旧大仏を縮小し肩から上の大仏と大仏殿を寄進し

たものがあった

火災による消失ショボーン

見たかったな、ほんと


豊国神社正面

かつては、大仏殿正面だったらしい

背後にそびえる大仏殿は今は跡形もないが

是非とも訪れて、当時を想像してみてみるのも

良いと思う