母の具合が本当に良くなって来た


初めはそれが本当に嬉しくて嬉しくて

そして最近はそれが当たり前になって来た


実はこれは当たり前ではないことだった。数週間前までは


母は腰の脊柱管狭窄症とヘルニアの手術を今年2月にした


手術は無事成功。術前までは足に走る激痛で90度に腰を曲げてやっと歩いていたのに、術後に真っ直ぐにピンと背筋を伸ばして歩いてる姿は奇跡のようだった


しかし、ヘルニアは再発するので、腰を曲げた動作や、重い物を持たない、など日常生活がかなり制限された。

風呂を掃除する、テレビのリモコンを取る、落とした物を拾う、床の汚れを拭き取る等々、腰を曲げるという動作が日常生活には如何に多いということに私はこの時初めて気づいた。


母は理容師である。そして、父は私が中学の時に亡くなった為、女で一つで兄弟3人を育て上げてきた。仕事をして、社会と繋がりを持ち、母として父としての役割を果たして来た。つまりは自分で何でもやって来たのだ。家の中のメンテナンス一つでも父が居れば任せておけばやっておいてくれたのに、そういったことも全て母が業者を選定するとこから始まり切り盛りして来た。何でも出来るという自負があったに違いない。


それが全く出来なくなったのだ。仕事どころか、冷蔵庫の一番下の引き出しを屈んできゅうり一本取ることさえも。


術後1ヶ月は元気に過ごしていたが、2ヶ月後辺りから左足が痛い、3ヶ月後にはお尻が激痛、その後は左半身が針で刺したように痛み、痺れ、昼間は頭と顔が痺れて頭が狂いそうな症状に悩まされた。正に坂を転げ落ちるように悪くなっていったのだ。腰は治ったのに、他の病気になってしまったのか?

肛門科、整形外科、内科あらゆる病院を探し出しかけずり回った。それでも治らなかった。

最後に手術をしてくださった主治医から心療内科を紹介された。


心療内科?何故?痛みは神経から来てるはず、と信じて疑わなかった。

私はネットで探し出した神経専門の先生に直接電話を掛け、その先生がまたとても良い方で受診もしたことのない私に突然電話したのに医者である先生本人が親切に質問に答えてくれたのだ。その先生の病院は遠方だった為、家の近くの病院で知っている先生を紹介してくれた。と言っても紹介状があるわけではないので、診てもらえるかも分からないけれど、母を連れてその病院へ向かった。が、整形外科の先生からは心療内科の紹介状を書いてもらっていたので、仕方なく?心療内科へ。待合室を見て、「私は違う!心療内科なんかではない」と戸惑いを見せる母を横目に、「とりあえず心療内科の先生に会って、それで神経内科の先生に院内で紹介してもらう目的だからね、今日はね」と言っても母の顔はみるみる暗くなっていった。


順番が回って来た。女性の心療内科の

先生で、症状を聞き取ることはもちろん、母の生い立ちから詳しく話を聞いてくれた。先生は「今まで仕事をして社会と繋がって来たのに、それが出来なくなったことは、まるで魂を取られたみたいな気持ちだったんですね」と言って下さったのです。魂を取られたに私は思わず涙が溢れて来ました。


母のことは、自分の「母」としてしか見て来ず、一人の人間として尊重する、ということが出来なかったので、分かりませんでした。


自分の行動範囲、動作、日常生活が全くと言っていい程制限されてしまうことが、社会から閉ざされて自分という存在価値を見いだせなくなるまでの気持ちになったこと。その精神的辛さが術後の全ての症状を作り出していたということを。


結局自律神経の乱れがこれらの症状を、作り出していたのです。私たちが健やかに生きて行くためには、身体を鍛えるだけでなく、それに伴って心も健やかにしていなければ真の健康とは呼べないのです


母の痛がる姿を術前から数えれば約10ヶ月目の当たりにしてきました。本人が一番辛いのだけれど、側にいる家族も大変辛いものでした。出来れば私も母と同じようにどこか悪くならないか、と罪悪感を感じる程でしたし、治してあげられない無力感も毎日感じておりました。


だから、どこも痛いところがなく普通に生活が出来るのは、当たり前ではないのです。朝起きられること、スタバでコーヒーを飲むこと、テレビを見て笑っていられること、全部素晴らしいことなのです。トレーニングが満足に出来るということも、とってもとっても幸せなことなんです。


痛がる母を通して私は、

「何か悩みのある人、症状のある人にはそこばかりにフォーカスするのではなく、その人の人生の背景も視野に入れて理解出来たらよいな」と感じたのです


袋小路に入ったまま出られないことが一番辛いですが、物事には必ず終わりがあり、出口があるのです。だから大丈夫🙆


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