米村こなん
○十数年ぶりに梶井基次郎の『檸檬』を読み直した。相変わらず大学入試に出題しやすい飛躍があり、梶井独特の緻密だかロマンチックな逆説にみちた文体は、もはや梶井の甚だ繊細な感受性とは程遠い年嵩を重ねた年代の私をも魅了した。小林秀雄あたりなら、梶井のフラジィールな憂鬱さに近代知識人の苦悩を診てとるのだろうが、今以て梶井の檸檬が傑作足りうるのは、いつの時代にも共通する心性として、鋭利な不安感情が人々に存在するからだろう。まさに《えたいの知れない不安》という奴である。
○だが、現代でlemonといえば、米津玄師の歌曲のタイトルが直ちに連想されるだろう。しかし、喪失感に対する苦々しい思い出をlemonの匂いに幻想するあたりは、梶井の檸檬と本質的に変わらない。米津のlemonが全くの空想の産物かもしれないという蓋然性を誰も否定出来ない以上、梶井の檸檬が丸善破砕という空想を呼び込んだことと大差ない話であるからだ。
○いずれにせよ、梶井の檸檬も米津のlemonも、えたいの知れない憂鬱を空想によって転覆するという意味では、異なる階調の憂鬱を描いたものに過ぎない。
いつの世も憂鬱は空想に包まれている。
