0.図説 一昔前のネトウヨ観

1.序説 右傾化とは何か
日本社会は昨今、右傾化しているといわれる。右傾化とは何かをまず問わなければならないが、その定義は後述するとして、さしあたり"右翼的"ー"保守的"国粋主義的""民族主義的"な思潮が社会の支配的な考えかたの一つになりつつある社会と規定できるだろう。
その顕著な例が在日コリアンに対するヘイトスピーチである点は論をまたない。明白な排外主義に基づいて誹謗中傷する示威行動は、まさに市民社会の恥として直ちに糾弾され、葬りさられるべきであるが、なぜこうしたヘイトスピーチは生まれるのか、その社会的背景への分析抜きに近年の日本社会の右傾化は語れない。
では、まず日本社会の右傾化のシンボルとして「ネット右翼」通称ネトウヨについて考えてみたい。ネトウヨに関する定義や用例はwikiに概略されているが、そこから筆者が興味深いと考える定義を摘出してみる。
第一にネトウヨとは「右翼的、保守的(復古主義的)、国粋主義的な意見を発表する人々」であると一般的に定義されるが、ここでいう右翼的とは何であろうか?猪野健治の『日本の右翼』(ちくま文庫)によれば、右翼の定義は「左翼に対抗する在野勢力の前衛的部分」とされる。1973年に初版の文献だけに些か古びた感もあるが、右翼の一般規定として20項目が挙げられている点は特記に値するので、冗長な引用になるが、議論の前提として列記する。
1 天皇及び国家に対する絶対的忠誠
2共産主義、社会主義またはこれに同調する勢力への反対・警戒
3理論よりも行動の重視
4民族的伝統、文化の護持と外来思想、文化への警戒
5義務・秩序・権威の重視
6民族的使命感
7命令系統における権威主義
8家族主義的全体主義
9保守的傾向
10一人一党傾向
11少数精鋭主義
12家父長的人間関係
13知識層ーとくに言論人、教職員に対する警戒
14性急な直接行動(直訴、テロ、クーデター指向)
15国益最優先
16軍事力の拡大強化指向
17愛国教育の推進
18戦後体制の全否定(ヤルタ・ポツダム体制打破)
19マスコミの報道姿勢への強い警戒
20セレモニーの重視(祭礼、儀式、儀礼、パーティー等)
これらの諸規定が私たちの右翼に対するイメージの基盤になっているし、保守的傾向や国粋主義的傾向をも包括する概念が右翼的という用語に含まれていることに気付く。詳細に各項目を掘り下げて検討したいが、本稿では紙幅の関係で""右翼的"という用語の示唆するところを指摘するだけに止める。
第二にネトウヨの具体的思想傾向を辻大介は2ちゃんねらーへの質問調査を通じて以下のようにまとめる。wikiより引用してみる。
ネトウヨは以下の項目にすべてあてはる
a)中国、韓国に親しみを感じない。
b)憲法9条1項、2項改正、小中学校の国旗掲揚・国歌斉唱、愛国教育
c)ネットに政治社会問題の書き込みや議論をした。
猪野の右翼規定に照らすと、ネトウヨは思想的に具体性のある政治・社会問題によりコミットしている傾向が伺えるし、極端な話、万世一系の天皇制を自らの命をかけても護り通すといった旧来の民族派右翼とは一線を画しているようにもみえる。
猪野と辻の規定を借りつつ、筆者の私見を加えて整理し直すと、ネトウヨは下記の傾向をもつといえる。
1 嫌韓・嫌中
2 戦後民主主義の否定(小中学校教育における愛国主義教育の実践、改憲)
3マスコミ、左翼知識人への怨嗟
4匿名性に隠れたコミュニティへの帰属意識
5ニートや低学歴者の中2病的不満の捌け口
以上の規定のうち、4は北田暁大ー鈴木謙介の議論を参照した。要はつながりたい欲望の結果としてのネトウヨがあるということだ。たまたまネトウヨは右翼的傾向があったたけで、左右両翼の理論的枠組みで彼らを捉えても無意味であり、どんな性質の「つながりの社会性」がネトウヨにはあるかが考察対象になる。5は社会的弱者が不満の捌け口を国家のような大いなるものと一体化することで解消しようとしているという見立てだ。
さて、こうしてネトウヨの概念規定を行った訳だが、次節ではネトウヨへの私信という形式でネトウヨに対する私見を述べてみたい。

2.私信「21世紀の〈X〉たちへ~〈戦後民主主義〉のピューリタンへの手紙」
前略
ネトウヨの皆様へーそう呼びかけていいものか悩んでしまいます。ネトウヨという呼称は〈あなたたち〉が「マスゴミ」と忌み嫌うマスメディアによって名付けられたものにすぎませんから、本当のところ〈あなたたち〉をどう名指せばいいのかさえわからないのです。
哲学の世界では相手をどう名指すかでその本質を規定するという考え方が根強くあります。この考え方に従えば、何らの内容的吟味もなく、私などが知たり顔で「ネトウヨの皆様」と呼ばわるのは不謹慎な気がするのです。
ですが、何であれ、名前を決めない訳にはいきませんから、これからすこし遠回りをする形になりますが、〈あなたたち〉をどう呼べばいいのかーまずそのことから話はじめたいと考えますし、この書簡の最終目標も〈あなたたち〉を名付け終えた時点でその使命を果たすと考える次第なのです。
では、まず〈現代の愛国者〉というのはどうでしょうか?
この国では70年前総力戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に敗北してからというもの、〈愛国〉という言葉が様々な党派に錦旗の如く利用されてきました。社会学者小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』 により周知のように、戦後まもなくは、いま〈あなたたち〉が嫌忌する左翼党派 (社共)によって〈反米愛国〉の政治スローガンのもと〈愛国〉が呼号された時期もありました。
もちろん、時代が変わっているのですから、私は〈現代の〉と形容したのですが、〈現代〉とはいつ頃からのことだと問い返されれば、実感的に〈ここ数年〉としか答えられません。
しかし、〈あなたたち〉の歴史に鑑みれば誤りであることに気付きます。評論家・濱野智史によれば、新陳代謝の激しいネット世界で〈あなたたち〉はすでに〈十年〉以上の歴史をもつと言われています。〈十年〉以上といえば、〈現代〉というよりも、一時代を画す感があります。それでも〈十年前ぐらいから現在までの期間〉を含めて〈現代〉と形容できなくもありませんが、ここで私は一つの思いつきを提案したいのです。21世紀のゼロ年代に生起した〈あなたたち〉の歴史を包括して、〈21世紀の愛国者〉というのはどうでしょうか?先述しましたが、様々な党派に横領され続けてきた過去の〈愛国〉を20世紀の遺物とみなすならば、まさに〈21世紀〉はネットという新たな公共空間のはじまった時代でしょう。〈21世紀〉とはまさに〈あなたたち〉の時代なのですから。
さしあたり〈現代の〉という言葉は〈21世紀の〉という表現に置き換えて話を進めましょう。
次は〈愛国〉という言葉の中身についてです。
常識的にいえば、字義通り〈国を愛する〉ということなのですが、この国では歴史的にいって〈国〉といえば〈故郷〉を示します。徳川幕藩体制の名残かもしれませんが、戦後の高度成長期までは〈国〉=〈故郷〉でありました。それが成熟社会に突入し、東京一極集中、地方の郊外都市化、いわゆるスプロール化現象によって〈故郷〉は均質化され、この国のどこをみても幹線道路沿いにショッピングセンターが建設され、コンビニが軒をつらねる光景となりました。もはや〈故郷〉という独異な土地は喪われたのです。
〈故郷〉でないなら、〈国〉とは何でしょう。真っ先に頭に浮かぶのは〈国家〉という言葉です。
〈国家〉をどう定義するかはそれこそ難題です。
一説には〈想像の共同体〉だとする考え方もあれば、〈共同幻想〉とみなす考え方もありますし、〈市民契約〉だという主張もあります。
ここでは議論が込み入りますから、〈文化的伝統的共同体〉としての〈国家〉と〈政治的共同体である統治機構〉としての〈国家〉に大別して考えます。
前者はアイロニカルにいえば、この国に住む私たちの頭だけに存在する共同幻想でありましょう。有名な例として三島由紀夫は『文化防衛論』のなかでこの国の古典芸能の終末点を天皇制に求めその文化的防衛を叫びました。これは国境と民族と言語が比較的一致している(ーもちろん琉球やアイヌといった例外もありますが)この国ならではの発想でしょう。しかし、私は国境と民族と言語の一致は、たまたまこの国が島孤であったからにすぎないと考えます。地政学的にいっても島国であるこの国は海外からの直接侵略をほとんど経験していません。そのような偶発的な幸運が国境と民族と言語の一致を伴う〈単一民族国家幻想〉を強化し、〈文化的伝統的共同体〉としての〈日本国〉を現出させていますが、私は〈文化的伝統的共同体〉など〈言語〉の産みだした〈共同幻想〉に思えてなりません。しかしながら、〈あなたたち〉は〈文化的伝統的共同体〉としての〈単一民族国家幻想〉に寄りかかりながら、中国や韓国に対してエセノセントリズム(自民族中心主義)に基づいた誹謗中傷を浴びせます。私は悲しい愚行に思えます。私たちは異文化を理解しなければなりません。しかも注意深く細密に自文化との差異を発見し、文化的差異に寛容であらねばなりません。何度も申し上げますが、この国は地理的環境により偶然国境と民族と言語が比較的一致しているだけです。それ以上でもそれ以下でもないのです。自文化を自負するのは自由ですが、それとて異文化との相対的差異にすぎないと私は考えます。そのため、私は〈文化的伝統的共同体〉としての〈日本〉を芸術的観点から愛していますが、政治的観点をからめて、〈日本文化〉は中国大陸や朝鮮半島の文化よりも優越しているとはおもいません。当然ですが、優れた点もあれば劣った点もあると冷静に受け止めたいのです。
以上の理路から私は〈文化的伝統的共同体〉としての〈国家〉の側面が言語による〈共同幻想〉であると認識しています。
それに単純な質問をしたいのですが、エセノセントリズムを唱える〈あなたたち〉ははたしてどれほど〈日本文化〉を知っているのか?と、嫌中嫌韓論を聞くにつけ思えてならないのです。
他方、後者は〈国家〉の権能を〈統治システム〉に限定する考え方です。これなら、民主主義政体、共産主義政体(集産主義)、無政府主義、…など統治方法によりその名称は替わるにせよ、本質的には政治的権能(国家権力)において〈国家〉を表象できます。極端な話、明日から日本食を一切禁止するという法令を施行できるのが〈国家〉なのです。ごはん食がパン食に変わっても仕方ないかと私たちはしぶしぶ受け入れるかもしれませんが、徴税権を〈国家〉が強圧的に行使して、間接税を50パーセントにしたら、たちまち暴動が起きるかもしれません。普段みえない〈国家〉の影はこうした例でも明らかなように私たち市民生活の各所に網の目のように入り込んでいます。
では、この国の〈統治システム〉とは何でしょう。それは言うまでもなく〈立憲主義〉に基づいた〈民主主義政体〉です。〈立憲主義〉である以上、〈国家〉の最高法規である〈憲法〉の範囲内で法治を行います。
こう申し上げると〈あなたたち〉は現行憲法である日本国憲法は戦勝国による押し付けだと批判されるかもしれません。さらにいえば、〈戦後体制〉である〈戦後民主主義〉に懐疑を抱いている、とも。〈戦後民主主義)は日本国憲法に基づく立憲主義の〈統治システム〉を言い換えたものです。これに対し〈あなたたち〉は小中学校での日の丸掲揚・君が代斉唱の義務化、愛国教育強化という政治的課題を突きつけて〈戦後民主主義〉の改変を迫ります。 そう考えると、〈あなたたち〉は〈国家〉=〈統治システム〉 とも考えていませんね。というのも、仮に〈愛国〉の〈国〉が〈国家〉という〈統治システム〉を指すなら、現行の〈統治システム〉である〈戦後民主主義〉をこそ、〈あなたたち〉は擁護しなけれなりません。 なのに、そうではありません。これは大いなる矛盾でしょう。
こうして〈愛国〉の意味するところである〈国〉とは何かを考えたとき、〈あなたたち〉の苛立ちが〈戦後民主主義〉に向けられたものであるといえます。
なお、ここで一つの脱線をお許しいだだけるなら、〈あなたたち〉がなぜ〈戦後民主主義〉を憎悪するのか、考えてみたいのです
その手懸かりとなるのが〈戦後民主主義〉のレールに乗りきれていないからではないかという説です。社会学者の宮台真司は〈あなたたち〉を〈低偏差値の集団〉であると非難しています。この言葉の真偽はともかくも、先述した通り、〈愛国〉の中身が〈国家〉=〈統治システム〉であるなら、〈現行体制〉こそ愛すべきなのに、憎悪こそすれ、けっして肯定しない態度に矛盾が生じるからなのです。そこで考えられるのが、〈現行体制〉=〈戦後民主主義〉から疎外された人々による〈現行体制〉へのバッシングではないかといたい見立てです。くどくどしく述べましたように、〈現行〉の〈統治システム〉の中身を吟味するなら、〈あなたたち〉は体制内保守として〈戦後民主主義〉を愛するべきでしょう。でありながら、〈戦後民主主義〉に怨嗟の声をあげるのは、その体制にノリきれてないからだ、と論定できる訳です。
私もこの説には賛成です。私自身もまた〈戦後民主主義〉から弾かれた人間だと自己規定していますが、さりとて〈戦後民主主義〉を打倒しようと考えておりません。むろん〈戦後民主主義〉にも数々の自己欺瞞が内在している事実を承知していますが、それでも〈現行体制〉に替わる、ヨリましな統治システムの理念を見出だせないままに、それを転覆せよとは迫れないと考えるのです。
すこし話を戻しましょう。
〈あなたたち〉はもしかしたら〈戦後民主主義〉からの疎外者なのかもしれません。もちろん、そうである人もいるし、そうでない人もいるでしょう。そうでない人は〈戦後民主主義〉の自己欺瞞に耐えられないということなのでしょうか。
では、〈戦後民主主義〉の自己欺瞞とは何でしょうか。誰も一番は決められないからといって、みんなで手をつないでゴールする小学校の徒競争に代表される〈行き過ぎた結果平等主義〉の嘘臭さでしょうか。それとも、米国に軍事的に従属するこの国の不甲斐なさへの嘆きなのでしょうか。例示すれば枚挙の暇がありませんが、確かに私の目からみても〈戦後民主主義〉は自己欺瞞にみちています。しかし、人間の作る政治制度です。不完全な人間が作るのだから、完全なものなどありえません。しかも政治制度は人間の欲望の調整システムでもありますから、人間の数だけ欲望がある以上、その共通合意を導くシステムにはおのずから限界をはらみます。不完全な私たちにできるのは、現行世代と未來世代にとってせいぜいヨリましな〈政治制度〉を維持し、それを後世にバトンタッチしていくことぐらいなのです。これは祈りにも似た行為であり、世代間倫理として継承するべきだと私は信じてやみません。
私はあえて〈あなたたち〉に問いたいのです。
〈戦後民主主義〉よりもマシな〈統治システム〉を〈あなたたち〉は考案し、それを現行世代および未來世代に向けて有用だと説得できるのでしょうか?私は無能ゆえに新しい〈統治システム〉を発明できません。だからヨリましな〈政治体制〉として擁護する者なのです。
話がまた逸脱しました。
本旨に戻すと、〈あなたたち〉は〈21世紀のX〉といえるでしょう。これまで見てきたように、すくなくとも〈あなたたち〉は〈愛国者〉ではない。もし〈愛国〉をいうなら、私の方が〈愛国者〉であるといえます。
それでは〈X〉とは何を指すのでしょうか?もうおわかりだと思いますが、〈X〉とはネットの匿名性に隠れた〈あなたたちひとりひとりの固有名〉のことなのです。 私は冒頭で〈あなたたち〉をなんと呼べばいいのかと問題提起しましたが、やはりネットの匿名性に秘匿された〈あなたたち〉の〈固有名詞〉が〈X〉の中身なのだと考えます。
いや、こうも申せましょうか。
〈戦後民主主義〉に純粋培養された〈 あなたたち〉は、ネット空間で刀を振りかざしながら、〈戦後民主主義〉に反逆し、新しい統治システムを探し求めているのかもしれません。しかも、それはピューリタンのような禁欲的倫理を伴っています。毎日片時もパソコンの前から離れず、敵である〈戦後民主主義〉への抵抗を試みているのですから。
現代日本のうんだピューリタンにとって、〈戦後民主主義〉の滅びたあとに到来する〈統治システム〉は〈21世紀の千年王国〉なのかもしれません。
しかしながら、私は思うのです。いくら〈21世紀の千年王国〉を熱望しても、このクソッたれな〈戦後民主主義〉はおそらくしばらくは続くだろうし、それは人類が滅亡でもしない限り、果てしなくつづく「終わりなき日常」でありましょう。
どうか私のような〈戦後民主主義〉に生きる人間に、新しい〈千年王国〉のビジョンを語ってほしいのです。
再言します。
〈戦後民主主義〉を乗り越える、新しい〈千年王国〉とは何?と。
以上を結語としてこの書簡を閉じます。拙い駄文をお読みくだすってありがとうございました。
3.補遺

「ネトウヨの千年王国を越えて」~続「芸術的抵抗のすすめ」
私は自らを〈最期の戦後民主主義者〉と規定しているが、〈戦後民主主義〉が並々ならぬ努力を以て築き上げた〈平和〉と〈繁栄〉をトンチンカンな〈憲法〉理解しか持たない連中によって台無しにされるのは耐えられないのだ。
ネトウヨはある点ではマスメディアの監視者であり、批判精神の発露として一定の理解を示されていい。だが、極右と見紛うような排外主義や内実の吟味を伴わない国家主義への傾斜は、中森明夫の表現を借りるなら、悪趣味きわまりない国家・趣味(主義)に他ならないし、このことは再三強調されていい。
成熟社会では様々な価値観が攻めぎあい、中心的価値観に求心されにくくなる。どんな状況でも行為の前提はつねに入れ替わるが、社会の本質は"みんなの合意形成のプロセス"にどのように関与するかにある以上、自らの意見に合わない異質な存在とも向き合う必要(社会的リスク)がつねに存在する。そうでありながら、この酷薄な現実から目を背け、ネット空間の匿名性にかくれ、隣国や人種的・性的・社会的マイノリティを異分子として排斥する動向は、社会の寛容度を著しく損なうし、ひいては社会の自殺すらも招来しかねないだろう。
いま私たちに必要なのは、本音で語るという美辞のもと、社会的弱者や隣国をディする在り方に対する自戒である。人間は悪口が大好きな生き物だが、悪口を言うリスクとメソッドを考慮すれば、ネトウヨ的な罵詈雑言の類いは、中長期的にみて国益を損なう行為であると強く認識すべきだ。
私たちはこのデタラメな社会で耐え抜いて生きていかねばならない。
そのとき武器になるのは、試行錯誤の繰り返しによる経験則の上昇とそれを肚に繰り込んだ芸術的抵抗である。
私たちは幸いにして知性をもっている。感情的な煽りの文句に引っ掛かるのではなく、いまこそ冷静に社会を観察し、そのなかに潜り込んで、なんとかもがきながらも生き抜き、芸術的抵抗を試みるべきなのだ。
こう書くと批判があるだろう。
なるほど芸術的抵抗なんて〈規範的〉=〈理念的〉文言じゃないか、と笑われそうである。しかし笑いたいなら、好きなだけ笑えばいい。
芸術的抵抗、これこそがデタラメで不条理な社会で唯一の私たちの武器なのだ。さあ、いまからアートの〈ことば〉と〈かんせい〉で芸術的抵抗を試みよう。
そこにこそ、〈人間〉の脱出口があるのだから。