子どもというのは何もなければ石ころを蹴って遊ぶ。木の枝が落ちていれば振り回したり、折ってみたり曲げてみたりして遊ぶ。

 まあちょっと、物を壊すとか周りに迷惑をかけるとか、現実的な大人の事情は置いておいて、子どもの持つ工夫するチカラについて見てみよう。

 

 何にも無ければ穴を掘り始めるし、草をちぎったり虫をつついたりする。ボールを一つ与えれば、投げて遊び蹴って遊び、ぶっつけあって遊んだりする。その時いる人数で出来る遊びを考えて自由に遊びが始まる。

 

 例えば、ボールしかなければ木の棒を探して野球をする。棒が折れればもっと太いのを探すし、長い棒なら折って使おうとする。

 そこには「工夫」がある。あるモノをどう使ってどう遊ぶかを考えて選択する。それが大事だと思う。

 

 さらにその過程では、「危ない、痛い、コケる、つまらない、こうした方がいい、こうするとこうなる」といった、身体的にも力学的にも大事な経験値を自分で学ぶ。

 棒を折ろうと踏んづけてみて、折れなければ足が痛いと判るし、折れれば折れたで飛んでくるカケラが危ないと知る。その過程でケガすることもあると思う。でも僕は、アザを作ったり膝をすりむく位のケガはした方がいいんじゃないかとも思う。

 大人である僕たちは、その手前で予防線を張りすぎているのではないかな。

 

 僕はゲームを否定はしないけど、創造力や身体的な経験値といった、子供のうちに伸ばすべき部分は伸びづらい。むしろそれらを伸ばす機会や時間を、削っているようにも思う。完成されたモノが子供の創造力を奪うのだ。

 

 ゲームもいいよね、楽しいもの。だけど工夫して学ぶ時間も必要だよねと思う。そしてそれらの機会も環境も、僕ら大人たちが作ってあげなければいけないし、大人の責任なのだろうなと思う