バーテンの頃、マティーニを注文されると緊張した。世の中にはマティーニだけで300以上のレシピがあると言われている。
誰もが知るマティーニだけど、実は誰もが違うマティーニを好んでいて、ゆえに満足してもらうのが一番難しいカクテルともいえる。
こだわりだすと際限のないカクテルだ。お客さんも知識やこだわりがそれぞれあって、その人の知っている味や好みに合っていないと「違う」と意見されることもある。
一方できちんと銘柄もレシピも指定してオーダーしてくれる客もいるし、「そのお店のマティーニ」を味わって楽しんでくれる客もいる。
僕は店に置いているジンとドライベルモットの銘柄を伝えてオーダーをとり、自分の店の僕のマティーニを作った。優しい客は一杯飲みほした後、
「次はエクストラドライでレモンピールをリンスしてほしい」
と、細かな自分の好みを伝えてくれたりもする。
あのカウンターを介して行われるわずかな言葉のやり取りは、人と人とが初めて出会って距離を測るときの、敬意をもって接するような機微が実は随所にあって、うまいことそれを友好的に乗り越えると、とても良い空間がお互いの間に構築されたりもするのだ。
優しい気持ちでカードゲームするような感じ。
人間関係はそう、言葉を選んで相手の気持ちを思いやって、不快感を与えないように近づいてゆく。
客の側からしてもマティーニは注文しづらいとも聞く。多分僕のような人間がこんな大げさなことを書くからかもしれない。
今度バーに行ったらマティーニを注文してみて欲しい。そしてバーテンの仕事をじっと見つめるのも楽しみの一つだ。きっと緊張して作るだろう。
酒の銘柄や細かなことを問われたら「お任せします」と。その店のそのバーテンの一番おすすめのマティーニが出てくるはず。