木を伐るということは、木を殺すことでもある。僕は仕事で木を伐っているけど、

伐ることが楽しいかと言われると楽しくはない。

 仕事をすることは楽しいけれど、木を伐ることはどちらかというと悲しい思いが強い。

 そもそも僕が初めてチェンソーを持ったのは、津波の後の流木除去のためだった。

流されてきた流木をただひたすら刻んでは

「ああ、この木たちもまた、津波の犠牲者なのだな」

と弔いの気持ちで刃をあてたものだ。

 流木が無くなる頃、今度は塩害で立ち枯れる木が出始めた。津波をかぶって時間が経ち、頑張れずに枯れてしまった木たちだ。それもまた僕は悲しい気持ちで伐ってきた。

 

 やがて津波で枯れた木が無くなる頃、今度は町づくりの様々なシーンで、人間が使う場所を拓くために木を伐るようになった。

 我々人間のためとはいえ、伐られてゆく木に「ごめんね」と、謝りながら伐るようになった。生きている木を伐るのだから罪悪感はより大きい。

 今、僕は木を伐ることを仕事にしている。色んな理由で伐採をするのだけれども、

「本当は残念だけれど仕方ないから」

と依頼をされる方が殆どだ。

 先代、先々代、もっとむかしのご先祖様が、大事に守ってきた土地の木を伐ることは、依頼主もたくさん悩んだ末に、かなり思い切って決断している。だから僕はたとえ悲しくとも、心いためながら伐ることが、全てまとめて自分の役割だと思っている。きっと介錯人のようなものなのだ。

 

 僕がチェンソーを持つとき木は泣いているかも知れないし、怖いと震えているのかも知れない。

 

 木は生まれてから死ぬまでに、その一生でたった一度だけ大きな声で鳴く。

 

 地面に倒れ伏せるときの、幹が軋むような鳴き声。それはとても悲しい、大地にしみわたるような大きな鳴き声だ。