船岡山の戦い | ヤスのエブリデイ

ヤスのエブリデイ

歌とゲームと野球と、歴史が大好きなヤスと申します。
日本史は毎日勉強中!
歌動画、ゲーム動画など、YouTubeでもいろいろ出してます!
URL:http://www.youtube.com/user/yasutfa

俺にとっては神様、L'Arc〜en〜Cielの大ファンでもあります!

船岡山の戦いは、永正8年(1511年)8月23日、将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた、室町幕府の政権をめぐる戦いのこと。
応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。


足利義澄木像
photo:01




明応2年(1493年)の明応の政変により将軍足利義材を追放し、自身が擁立した足利義澄(義高)のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため、三人の養子を迎えたものの、その後、継を巡り細川政元の養子同士(細川澄之、細川澄元、細川高国)3派での権力争いが発生した。



細川澄元肖像画
photo:02



永正4年(1507年)6月23日に細川澄之派の重臣香西元長や薬師寺長忠らによって細川政元が暗殺される(永正の政変)。
細川澄元も屋敷を襲われ、一旦近江甲賀郡に逃走するが国人の力を借りて勢力を盛り返し、同年8月1日には京都に侵攻して細川澄之とその支持者を討ち取り、同年8月2日には第11代将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである。

が、その混乱に乗じ、京への復帰をもくろんだ前将軍足利義尹(義材)が、周防の戦国大名大内義興を伴い上洛を開始する。
これに細川高国が呼応し、将軍足利義澄は近江の岡山城に、それを担ぐ細川澄元は近江から最終的には阿波へそれぞれに逃亡した。戦いに勝利した足利義尹が義稙と改名して将軍に復職し、細川高国・大内義興の連合政権が成立した。

再起を図っていた足利義澄・細川澄元は永正6年(1509年)に復権を図ったものの敗れている(如意ケ嶽の戦い)。
その後力を蓄え、永正8年(1511年)畿内の諸勢力を糾合し反撃し京を奪還し、足利義稙達を一旦は丹波に逃亡させた。しかし、義稙達は次第に勢力を盛り返し、京に再度迫りつつあった。


開戦の直前、足利義澄の擁護者であった近江六角氏において内紛が勃発、その結果、当主である六角高頼が義澄方への与力をあくまで主張する守護代の伊庭氏を抑えて足利義稙方に寝返り、それを知った盟主である足利義澄が失意のうちに病死するという大事件が起きたが、細川澄元達の戦意はなおも衰えず、細川澄元方の細川政賢を主将として丹波と山城との要衝である船岡山に陣取り防戦を試みた。

しかし、西国の国人領主の大半を動員した大内軍は強大であり、その大内軍を含んだ高国方が夜襲をしかけると、細川政賢は戦死するなど細川澄元方は総崩れとなり、京都は再び足利義稙の手に帰した。



iPhoneからの投稿