「柘榴に抱かれて」西桐春夜

 

 

 

 

 

 

 

 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」

———————————旧約聖書『創世記』第二章より

 

 すべての胎児は初め女で、その後男に派生するのだそうだ。

「神父様の話長かったねぇ。私半分寝ちゃってたよ」

 彼女はそう言ってうん、と伸びをする。神父も他の生徒も皆早々に教会を出ていったため、ここには俺と彼女の二人だけだった。いくつもの木の長いすには俺たち以外に誰も座っておらず、しんとした冷たい空気が教会を満たしている。

「あー、疲れた疲れた。剛士君、後で教科書見せてくれない? どっこも線引いてないや」

「教科書じゃなくて、聖書だろ」

 俺が少し眉を顰めると、彼女は何ともなさそうにぱたぱたと手を振った。

「あー、それそれ。聖書ね。今日はテスト範囲言うって言ってたから、寝ないようにと思ってたんだけど」

 うっかりねぇ~、と言いながらまたあくびを一つする。何と不真面目な態度だろう。思ったよりも彼女のあくびが教会の中に響いた。彼女はふと気づいたように周りを見回す。

「あれ、もうみんな出てっちゃった? はっやいなー」

「お前が爆睡してたからな」

「ちゃんと起きたよ、チャイムの音で」

 それはちゃんと起きたとは言わない、惰眠をむさぼっていたというんだ。俺の眉間にしわが寄る。どうもこの女とは話がかみ合っていないような気がしてならない。

「てか、なんで残ってんの? 私を連れて来いって押し付けられた?」

 彼女は不思議そうに俺を見る。大きな目でのぞき込まれて気まずい気持ちになり、俺は自分の聖書を彼女に差し出した。彼女は聖書と俺を見比べ、疑問の表情を浮かべた。先ほどの自分の発言をもう忘れたのか。

「写すならもうここでやれよ。しばらく貸すより早く済めせてもらった方がありがたい」

「あ。ありがとー、恩に着るよ」

 にぱっと笑顔を浮かべ、彼女は俺の聖書を受け取った。手によだれなんかついてないよな、と一瞬不安になりまじまじと見たが、とりあえず聖書に触れている部分に汚れは見当たらない。俺はほっとして、いささか乱雑に自分の他の教科書類を整えバタン、と長椅子の隣に放った。彼女はパラパラと俺がつけた付箋を頼りにページをめくる。俺は彼女の指先をじっと見ていた。爪が伸びていたらうっかり引っ掻きやしないかと思ったが、案外綺麗に切りそろえられている。形もいいし、きちんと手入れしているのだろう、少しばかり艶もあった。

「ああ、ここだ。アダムとイヴ」

 一つのページで手が止まる。そのページを自分の聖書でも開き、僕の付箋と見比べながら線を引いていく。シャ、シャ、という音が耳についた。なんとなく彼女の手元を覗いてみると、彼女の聖書は皴一つ、開いた後一つなく、新品同然だった。

「お前、よくそこまで寝られるな。ほとんどっていうかほぼ真っ新じゃないか」

「うーん、うち仏教徒だからさ」

 仏教徒だからなんだというのだ。他の宗教には興味がないと?

「でもお前この間ギリシャ神話の本笑いながら読んでただろ」

「あ、あれ面白かったよ! 今度読んでみなよ」

 そもそもギリシャ神話に笑いどころなんてあっただろうか。一応神話なのに。

 彼女はどうもそこら辺、常人の感覚からずれているところがある。この間も、古典の授業で出てきた説話を読みながらにやにやしていた。授業中だったし声には出さなかったが、まあ正直言って気持ち悪かった。いや本当、冗談抜きに。

「これあれだよね。人は神がお創りになったー、ってやつ」

「ああ、まあその部分の続きだな」

 彼女はうーんと、何かを考えるようにして蛍光ペンを回し始めた。唇を尖らせて目をすがめる。今度は何だ。

「なんだ、何かわかんないとこでもあんのかよ」

 さっさと終わらしてくれないと昼休みが潰れる。

「いや、あれ何だっけ、ド忘れした。林檎を食べて追放されるやつの題名」

「失楽園?」

「ああ、それそれ」

 アダムとイヴって言ったらそのイメージ強いよね、やっぱ。そう言いながらまた聖書に目を落とす。俺はなんとなく手持無沙汰なので、早く終われとイエス像やマリア像に祈るのを諦めて彼女に話しかけることにした。

「そういう話、あんの? 仏教にも」

「えー、仏教の話とか詳しくないからわかんない」

 さっきの仏教徒発言どこいった!

 いい加減聖書を取り上げて教室に帰ろうかという思いが頭を掠める。

「あ、でも林檎つながりでいくとさ、あれがあった」

 ふっと、思い出したかのように声が上がった。目線を斜め上に泳がせながら彼女は顔を上げる。

「えっとね、柘榴」

「柘榴?」

「そう。おんなじ果物で、赤いでしょ」

「ああ、まあ……うん、似てなくはない……か?」

 実物を見たことが無いので何とも言えないが。それが何の話になるのだろう。

「鬼子母神っていう女の神様の話でね。何だったかな、そう、鬼子母神には百人単位の子供がいたんだよ。五百人だったかな。それで、彼女はその子たちを養わなくっちゃいけないんだけどね」

 子供、養う、という言葉を聞いているとなんとなくアダムとイヴにも通じる話かと思った。彼らも子供を産んで育てた話はあるし、共通する部分もあるのか、と。ところがどっこい。

「だから人間の子供さらってはバリバリ食べてたんだよね」

「真逆じゃねぇか」

 バリバリ食べてた? どんな神様だよ。とんだホラーだろそれ! というか、どこら辺に柘榴の要素があるんだ。よしんばこの後出てくるとして、出てきても大丈夫な柘榴なのかそれは⁉

「そんで、怒った釈迦様が鬼子母神の子供を一人隠しちゃってね。鬼子母神は探したけど見つからなくって、取り乱してお釈迦様に助けを求めるんだ。そんでお釈迦様は『お前めっちゃ人の子供食っといて、自分の子供が一人見つかんないだけでこの騒ぎか? しかも五百分の一で? 何人かしかいない内の子供をさらわれた人間はどう立ったと思う。今ならわかるよな』って」

 お釈迦様喋り方フランクだな。意訳それで大丈夫か。

「それから『命と子供が可愛いのは人も神も変わらない』的なことを言い聞かせて、子供を鬼子母神に返したと。改心した鬼子母神は子供の守り神になりましたとさ」

 おしまい。彼女はそういって締めくくった。うん、案外聴きごたえのある話ではあった。中々お釈迦様がいい味を出している。が。

「柘榴どこいった」

「ああ、それでね、鬼子母神って像だったり絵だったりでは柘榴と子供を持ってるんだよ。で、なんで柘榴かっていうと、人肉が食べられない代わりに味が似てる柘榴を食べてるんだって」

 ケロっといったが、いや、なかなかにあれだ。

「グロいな」

「そう? でも子供の守り神だから似合ってない? なんかお母さんって感じで」

 彼女の言った意味がよくわからず、きょとんとしていると彼女が続けた。

「柘榴ってほら、中に一杯小さな実が詰まってるでしょ。だから子孫繁栄の縁起ものなんだよ」

 そうなのか。確かに、中には沢山の丸くて赤い粒が入っていたような気がする。改心して子供の守り神になった女神が持つには十分な縁起ものだろう。子供がたくさん生まれますように、その子供たちも守りますよ、ということか。

「確かに」

「ねー、そう思うとあれだね。柘榴の中身は子供たち……沢山の胎児か卵で、外側は子宮かな」

 彼女は聖書に落としていた目をこちらに向ける。

「子沢山な鬼子母神には相応しい、まさに母性の象徴というわけだね」

 彼女は口元だけ、に、と笑う。

その仕草が、なんだか生々しく見えた。

 

「……胎児と言えば、この間生物の授業でやったよな」

「ああ、やったね。あれ面白かったな、なんだっけ、えーっと」

「胎児はみんな最初は女だってやつ」

「ああ、それだよそれ」

胎児は最初すべて女性から始まり、その後の成長過程で男性になるかそのまま女性であるかに分かれるそうだ。つまり、すべては女性から始まる。

 彼女はまだメモを書き写し終わっていないのか、自分の聖書と俺のを見比べてペンを動かしていた。カリカリ、キュッキュッという音が静かな教会に響いている。

「神は最初男を創ってそこから女を生んだのに、人間の腹では逆の事が起こってるんだな」

 キュッ、というペンの音が止まり、不思議そうな顔で彼女は俺を見上げた。彼女は丸い瞳をさらに丸くし、僕の顔をじっと見つめる。どうしたというんだ。

 僕が怪訝な表情を浮かべると、彼女は「ああ、いや」と表情をやわらげた。

「そういえば敬虔なキリスト教徒だったね」

「別に敬虔じゃない」

 むっとして即座に言い返すと、彼女はうーんと唸る。

「現代っ子になろうとするのはいいんだけど、そーゆーこと考えちゃう時点で結構真面目な信徒の部類だと私は思うな」

 彼女はそう言いながらペンを筆箱に戻し、自分の聖書と僕の聖書を同時にバタン、と雑に閉じた。そんなに乱暴に扱ったら、ページが折れてしまうかもしれない!

「あっ」

 思わず身じろぎした俺に、彼女はニヤッと口元を歪める。しまった。渋い顔をする俺に、彼女はにやにや笑いのまま聖書を差し出す。

「悪かったって」

「うるさい」

 聖書を受け取り、傷がないか確認しようとして……止めた。まだ彼女がこちらをにやにやしながら見ている。俺の機嫌が悪くなっていることを見て取ったのか、彼女はもう一度、悪かったって、と言い気持ち悪い笑いを引っ込めた。

「うーん、なんで男女の始まりが聖書と現実で逆転しているのかっているのは私は考えたことなかったけど……」

 彼女はちらりと俺を見る。

「そうだな、神が人を作った時と人が人を作った時が何で男女の立場に逆転が生じるかって事には一応答えを出せるよ」

 俺は、びっくりして彼女をまじまじと見た。そんなことをこの変人は答えられるというのか。ごくり、とのどが鳴る。彼女はにっこりと笑って見せた。

「うん、男も女もさして変わりはないからじゃないかな」

……は?

「はぁ?」

 ぽかんとしている僕に意を介さず、彼女は続ける。

「神様肋骨から女を作ったんでしょ? 男にも女にも肋骨あるじゃん。そこ規準で行くとさして変わりないと思うんだよね」

 いや、いやいやいやいや。

「いや、肋骨って……、答えになってねえよ」

「そう? 聖書に沿って行くと、女に子供を産む器官を作ったのも神様だし、その仕組みを作り上げたのも神様ってことになるでしょ。その神様が男から女作った時に人類皆初めは女にしてんだから、別に肋骨ありゃなんでもよかったんじゃないの?」

 すべては神様の思し召しってね、と彼女は締めくくる。暴論だ。暴論過ぎる。無理やりすぎてそう反論したらいいかもわからないくらい無茶苦茶だ。こいつどんな思考回路でその答えを導きだしたんだ。

「おまえ、授業ほぼ聞いてないだろ……」

「いやだなぁ、そんなの最初からわかってる事じゃん」

 ムカつくこいつ……。

「聖書に重きを置くか、科学的根拠を求めるかどっちかにしないと頭疲れちゃうよ。どう頑張ったって宗教と科学はほぼ反対なんだからさー。ほんと真面目だよね」

 あっけらかんと言ってのける。確かにそうかもしれない、いや彼女の言っていることは的を射ているのだが、なんとなく受け入れたくない気持ちがぐつぐつと煮えたぎる。

「馬鹿にしてんだろ……」

「え、してないよ」

 至って真面目な顔で言われるとどうも反論できない。全く本当にどうしてくれよう。俺が悶々としていると、彼女は何気ない様子で口を開いた。

「別にさ、どっちでもいいと思うけどね。男が先か女が先かなんて、神様が先か科学が先かぐらい答えの出ない話だと思うけど」

 彼女は立ち上がり、うんと背伸びをした後自分の文房具類を片付け始めた。なんとなく釈然としないままで話が終わろうとしていることに納得がいかない。俺がまだ難しい顔をしていると、彼女は自分の荷物を持って、ああ、と言った。

「じゃあ、もう一つ答えを用意してあげるよ」

 彼女は俺の方は見ずに、視線を上向きにして言った。

「人は皆母性を求めるからである、ってのはどうかな」

 日が高くなってきたのか、教会の天窓から光が差し込む。

「女は怖いよ、特に守るものがある母親なんてのは何しでかすかわかんない時もあるからね。鬼子母神のように我が子可愛さに凶事に走る人もいる。なんにしたって恐ろしい強さを発揮するよね。強さにも色々あるけどさ、これから外に出て生きていくのにその強さ期待して最初は女なのかもよ。だってほら」

 光がマリア像に降り注ぎ、柔らかい石膏の肢体が照らし出された。その目線の先にはイエス像。その視線に込められているものはきっと、彼女を聖母たらしめるものだろう。

「腹の中で守られてきた私たちは、母親の強さが何なのか知ってるからね」

 

 愛は人を強くするからね。

 

Fin.